フィリピの信徒への手紙 2章19~30節
2019年1月25日
(内容)
- パウロはテモテをフィリピ教会に送りたいこと、エパフロディトをフィリピに帰したいと伝えている。
(黙想)
- パウロはテモテをフィリピに送り、フィリピ教会の様子を聞いて励まされたいと考えている。パウロは今獄中にある。自分が伝道した教会が今どうなっているのか、牧会者としてのパウロの思いが見られる。フィリピ教会の人たちが信仰に生きている様子を知ることができれば、パウロとしては力づけられる。
- 引退牧師としては、最後に牧会した教会のことは気にならないと言ったら嘘になる。でも直接関わることはない。では様子を聞いて力づけられたいか。そうは思わない。その教会のことは、今牧会している牧師にゆだねるべきであり、力づけられたいとは思わない。しかし、ゆだねた牧師やそこに集う信仰者のことを「心にかける」ことは大切なことだと思う。
- 「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」。ここでパウロは、「他の人」でどのような人のことを言っているのか。それはともかく、「イエス・キリストのことを追い求める」人と「自分のことを追い求める人」がいる。テモテは、イエス・キリストのことを追い求める人だとパウロは語る。自分のことを追い求めていれば、フィリピ教会のことはそんなに心にかけることはないだろう。
- 自分のことを追い求めることが悪いことだとは思わない。必要である。自分のことをいい加減にしてはいけない。そして自分のことを追い求めるように、他の人のことを追い求める、あるいは心にかけることが大切なのではないか。自分のことしか追い求めないのは問題だ。
- 引退した牧師はどうなのだろう。直接心にかけるべき教会はない。自分の余生をどう過ごすか、気にはなる。同時に、今出席している教会のことは心にかけることは大切だ。
- パウロは、フィリピの人々にエパフロディトを敬いなさいと命じる。彼は主に結ばれた人であり、キリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭った人だからと理由を述べる。今教会の中で他者を敬うことは、あまり教えられていないように思う。しかしパウロが命じるからには、フィリピの信仰者がエパフロディトに学んで欲しいとの思いがあるにちがいない。模範とすべき人がそばにいることは祝福であり、その祝福を自分のものにすることは大切である。
(聖書に聞く)
☆神さまが私たちに求める生き方
- (勧め)20節。親身になって心にかけることが大切。
- (勧め)21節。イエス・キリストのことを追い求めること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書で他者のことを心にかけることの必要を教えられました。引退牧師として、心にかけるべき教会や信仰者のために祈っています。さらに心にかけるべき人がいるのかもしれません。そう思った時、ある方のことが思い起こされました。私と同じ引退牧師のMさんのことを覚えて祈りたいと思います。
- 今日の聖書でイエス・キリストのことを追い求めることを教えられました。イエス・キリストは神のみ心に従い、そのみ業を行われましたし、最後には十字架の死を遂げられました。福音宣教にイエス・キリストはご自身を献げられました。イエス・キリストは自分のために生きることはなさいませんでした。私はイエス・キリストとの交わりに生きることを願っています。パウロは、自分の内にキリストが生きていると言い、生きるとはキリストであると言い、自分の身によってキリストが崇められることが願いだと語っています。そしてこの世を去ってキリストと共にいたいと熱望しています。
- 今ルカ福音書を読んでいて、イエス様はエルサレムにおいでになりました。いよいよ十字架の時が迫ってきます。主は、ご自分の死が近いことを知りつつ、与えられた使命に生きています。このような主の姿に私も倣いたいと願います。人生の最後まで、キリストを証しする者として生きていきたいです。神さま、私は私なりに主の証し人として生きていることをあなたはご存じです。足りない点はあるかもしれませんが、今の歩みを継続していきたいと思います。今日、こうして思いめぐらす中で、考えたことは、私たちも自分の死に向かって生きています。イエス様の場合は、その死は、十字架の上で贖いの死を遂げるという意義ある死でした。神の救いの御業としての死でした。
- 私の死は、ある意味で寿命が来ての死ですが、あなたから「よくやった。私のもとに来なさい」との声を聞いての死でありたいと願います。あなたによって召される時、このあなたの声を聞かせてください。
☆与えられた導き
- Mさんを覚えて祈る。
- 死の間際に神さまの声を聞くことができるように祈っていく。