ルカ福音書 20章1~8節
2019年1月18日
(内容)
- イエス様が神殿の境内で福音を告げ知らせていると、何の権威で「このようなこと」をしたのかと問われますが、イエス様は逆にヨハネの洗礼は天からのものかと逆に問いかけます。イエス様の権威を問題にした人たちはイエス様の問いに答えず、イエス様もご自身が何の権威で行動したのか答えませんでした。
(黙想)
- イエス様はご自分の権威を問われました。「このようなこと」とは何を指すのかがあいまいです。おそらく、神殿で商売をしている人たちを追い出したことを指していると思いますが、神殿の境内で人々を教えていることも含まれていると思われます。
- イエス様は神殿のことを「わたしの家」と呼んでいます。イエス様の権威は神としての権威です。神としての権威を持ち、神殿が強盗の巣とされることに対して怒りを覚えられて行動されました。またご自身の家(神殿)で人々に神の国の福音を宣べ伝えられました。神殿はご自身の家ですから、自分の家で何をしようと人から咎められる筋合いはありません。
- イエス様は御自分の権威を問う人たち、この人たちは神を信じていましたから、神の権威は認めていたはずです。イエス様はこの人たちに対して、洗礼者ヨハネについてどう思うか問いかけます。それはこの人たちが権威ある者に従うかどうかを確かめたのだと思います。権威ある者に従う気持ちのない人々にイエス様はご自身の権威について語られませんでした。
- 人は自分に対して権威を持つ存在を認めようとはしないものです。人は自分が一番偉い状態に身をおきたがります。イエス様の権威を問題にした人たちは、祭司長、律法学者、長老たちで、自分たちは指導者であり権威あるものとの自覚、認識を持っていました。自分たちに対して権威を持つ者の存在を認めたくない人たちでした。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)4節。イエス様は私たちに問いかけます。「わたしをどう思うか」。「わたし」に神としての権威を認めるか否か。あるいは、私たちが聖書を読む時、説教を聞く時、「あなたは神の権威を認めているのか」と問いかけます。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書は権威がテーマとなっています。自分に対して権威をもっている存在を認めるかどうかが問題とされています。祭司長、律法学者、長老たちは、神さまを信じ、神さまの権威とを認めているはずの人たちでした。しかし神さまが遣わした洗礼者ヨハネを認めず、イエス様を認めようとしませんでした。
- パウロは、クリスチャンを迫害していましたが。復活されたイエス様に出会い、イエス様を神の子として信じるようになりました。それまでの自分の立場、信念を捨ててイエス様を信じました。自分に対して権威を持つ者を認めるということは、自分を変える、ということを意味しますね。
- 私自身信仰者となり、あなたの権威を認め、聖書を大切にしました。つまり聖書を神の言葉を信じ、神の言葉を自分の拠り所としました。物事の判断の基準をあなたの御言葉におくようにしました。それで迷いなく生きることができるようになり感謝します。
- 今日の聖書を読んで、人は自分に対する権威を認めたがらないことを思いました。信仰者もまたそうですね。自分を変えることには抵抗を感じるものです。
- 引退牧師である私は礼拝に出席すれば、自分より若い説教者の説教を聞くことになります。神の言葉として聞こうとする心と説教としてどうなのか、との批判的な心と二つの心で聞いてしまいます。それは仕方のないことだと思います。だからこそ、若い説教者のためにいつも祈り、批判は忘れることにしています。これからさらに成長していくのですから。明日の礼拝は、私の娘が説教をします。説教のために祈り、謙遜に聞くことができるように祈ります。あなたの言葉を聞くことができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 明日の礼拝説教のために祈り、自分の聞く姿勢を整える。