ルカ福音書 13章31~35節
2018年10月3日
(内容)
- イエス様はエルサレムが神に見捨てられると語ります。エルサレムの民は、預言者に聞くことをしませんでしたし、今、イエス様にも聞こうとしません。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)32節。イエス様は御自分の死を見据えて歩んでいます。
- (御子)33節。イエス様はどのような脅迫にひるむことなく、使命の遂行を目指します。
- (御子)34節。旧約の預言者もそうでしたが、イエス様が福音を伝えても、人々は聞こうとせず、答えようとはしませんでした。イエス様は拒まれる思いを味わわれたお方です。
- (御子)35節。イエス様は再臨されるお方です。
☆神さまが私たちに求める生き方
- (模範)33節。イエス様は、神さまから示された道、御自分の使命を真っ直ぐに進まれるお方です。私たちの模範です。しかもご自分の死を見据えて歩んでおられます。私たちの生涯に終わりはありますが、終わりの日まで、証し人としての信仰者の歩みを全うしたい。
- (慰め)34節。イエス様が悪霊を追い出し、病気を癒やし、福音を宣べ伝えても信じない人々はいました。私たちが福音を伝えても、証しをしても、人々が受け入れられるとは限らないことを知ります。受け入れられないことを嘆く必要はないことを知ります。福音を伝えるとはそういうことなのです。結果を気にせず、務めを果たしたいと思います。
- (警告)35節。福音を受け入れない者は、神さまに見捨てられるとあります。このことを人々は信じません。この世においては、自分の力で生きようとするのは、人々のならいです。たとい自分が神さまに見捨てられていたとしても、人々は自分の人生をよくしようと努力し、報いられなければ嘆きます。しかし絶望はなかなかしないのではないでしょうか。まだ何とかなる、と考えて歩みます。人はいつになったら悔い改めるのでしょうか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、イエス様は御自分の死に向かって真っ直ぐに歩まれます。人々が福音宣教に応答してくれなくても、悲観することなく、自分の道を進んでおられます。このことを模範とします。
- 何事かを伝えようとする人は、拒絶を味わうのですね。それにくじけてはいけないのですね。信じるということは人間の決断によりますね。信じないとの決断は、人間の決断です。神さまが人を信じないように導くということは考えにくいです。人が信じるとき、そこには神さまの導きを信じることができます。福音にはつまずきがあるからです。それゆえ、私たちは神さまの導きを祈ります。
- 天の父、私はインターネットを利用して福音を発信しています。個人的なわざです。どれほどの効果があるのか、することに意味があるのか、そんな思いが湧いてきます。でもイエス様が、自分の道を進まれたように、私も自分の道を進みたいと思います。
- インターネットを利用して発信できる、それは私の賜物のような気もしています。あなたから与えられた賜物なら、用いなければなりません。聖書を伝える働きを喜んで行います。
ディボーションのサイトに、ディボーションをアップし、説教のサイトには、先日行った説教をアップしたいと思います。
☆与えられた導き
- ディボーションと説教をインターネットのサイトにアップする。神さまの導きを信じて祈りつつ。
<夕べの黙想>
- 今日午後本屋に行った。沢山の本がある。沢山の人がそれぞれ本を出版している。自分の本を出版することは、その人にとって、一つの成果であると思う。ベストセラーにならなければ、やがて書棚から消えていく。本を出した人たちはどう思っているのだろうか。何人かの人に読まれ(できたら多くの人)、読者に益をもたらすことができればよしと考えているのだろうか。それとも入ってくる印税の多寡を気にするのだろうか。
- インターネットサイトで情報を発信することも本の出版に似ていると思わされた。インターネットでは沢山の人が情報を発信している。自分はその中の一人に過ぎない。ただ神さまに用いられることだけを祈っている。誰かの信仰生活に役立つことだけを願っている。