ルカ福音書 11章24~28節
2018n年7月28日
(内容)
- 汚れた霊についての教えと神の言葉を聞き、守る人が幸いであるとのイエス様の教えが書かれています。
(黙想)
- 汚れた霊をどう考えるかという問題がありますが、汚れた霊の明確な現実はないので、汚れた霊の追い出しに深入りはしないことにします。しかし自分の考えに執着し、他の意見に耳を傾けないとするなら、それは不自由の霊に束縛されていると考えることはできます。実際、人の意見に耳を傾けない人がいます。
- 恐れに支配されている人は、臆病の霊に取り憑かれているのかもしれません。自分が何かに束縛され、不自由であるなら、そこには汚れた霊の働きがあると考えることはできます。その場合、それらからの自由は必要となります。
- 汚れた霊の教えを比喩的に考えます。汚れた霊を追い出し掃除され、整えられた心が空っぽであると汚れた霊が仲間を連れてきて住み着くとあります。汚れた霊を心から追い出したら、心は別のもので満たさなければなりません。
- 悪い習慣をやめたいと思ったら、代わりとなる別の習慣を作らなければなりません。悪い習慣をやめることだけに努力していると、最後には、中途半端に終わってしまったり、元に戻ったりします。
- 良い習慣を作ろうとするなら、それができるように妨げとなるものを排除しなければなりません。
- 神の言葉を聞き、守る、このことをキリスト者はどう理解し実行しているのだろうか。聞くだけで行わないことについてイエス様は警告を発しています(マタイ7:26)。
- 自由にされたキリスト者は自由な心で、神の御心にかなうことを喜び、御心を行います。自由にされたキリスト者には、「しなければならない」との発想はありません。キリスト者は律法から解放されているからです。
- 私たちは律法主義者ではないと考え、御心を行うことをいい加減にする誘惑があるかもしれません。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)28節。幸いな人とは、神の言葉を聞き、それを守る人と教えられる方。イエス様は8章で「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えておられます。
☆神が求める私たちの生き方
- (教え)28節。神の言葉を聞いて守ること。神の言葉を聞いて、行うこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私たちは教会に連なって信仰生活をしています。説教を聞き、自ら聖書を読むことができます。神の言葉を聞き、また読みます。イエス様の教えのように、この神の言葉を聞いて守る、聞いて行うことは各自にゆだねられています。どのようにして神の言葉を行うのか、その指導がなされている教会は少ないと思います。
- 私自身は、教会に仕えているとき、このディボーションを教え、神の言葉に聞き従う歩みを指導してきました。教会を引退した今、直接ディボーションの指導を誰かにすることはありません。自らディボーションの生活を続けるのみです。
- 神さま、ふと思うのです。終わりの日の裁きの時に、「あなたは私の言葉を聞いて行ったのか」と主イエスに問われたら、信仰者はどのように答えるのか、と。神の言葉を知っていることと行うことは違いますし、ヤコブの手紙には、行いのない信仰は空しいとあります。
- 今の私としては、まず自らがデボーションをして神の言葉を聞いて守る、行う生活を続けることが大切と考え、これを続けていきたいと思います。伝道が思うように進まない原因の一つに、信仰者が神の言葉を聞いて行うことがおろそかになっていることがあると私は考えています。そのことに人は気づくべきです。気づかなければ人から言われても、自分の歩みを変えることはないと思います。
- 私としては、黙々とディボーションを続けて証しとなるこのサイトを維持していきたいと思います。そしてディボーションを行う人が増えることを祈っていきます。
☆与えられた導き
- 黙々とディボーションを続ける。
- ディボーションを行う人が増えることを祈り続ける。