ルカ福音書 9章51-56節
2018年6月23日
(内容)
- 主イエスは、エルサレムに向かう決意を固められた。サマリアの村を通るので、使いの者を送り、準備をさせた。サマリアの村人はイエスを歓迎しなかった。すると二人の弟子がサマリアの村を天からの火で滅ぼしませんかと主イエスに勧めるが、主イエスは二人の弟子を戒められた。
(黙想)
- サマリアの村人が主イエスを歓迎しないことが分かったとき、弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。弟子に焼き滅ぼす力はなく、主イエスにあなたならできます、と提案します。あまりにも突飛な提案に思えます。そして思い上がった提案だと感じます。
- 二人の弟子たちはなぜ、このような考えをもったのだろうかと考えます。自分たちの中で誰が一番偉いのかと議論していた弟子たちです。主イエスの教え、主イエスの力を知っている弟子たちは、主イエスを歓迎しないサマリアの人たちを裁こうとの思いになったのでしょうか。でも主イエスは弟子たちの提案を拒否しました。そして弟子たちを戒めたとあります。
- 弟子たちには主イエスに対する誤解があります。「主よ、お望みなら」と焼き滅ぼすことを提案しました。主イエスにそのような気持ちがあるかも知れないと思ったのです。二人の弟子たちは、主イエスのそばにいて、主イエスの人となりに触れていたはずです。主イエスを完全に誤解しています。主イエスを理解していません。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)55節。主イエスは、たとい信じようとしない者であっても、滅ぼすことを願わない方です。
- 人は、生きている限り、だれもが悔い改める可能性はあります。
- あの人は信じない、と決めつけるのもよくないと思います。
- (御子)55節。思い上がる弟子たちを戒められる方です。
- (御子)56節。一行は別の村に行ったとあります。信じようとしない人の村には行かず、可能性のある別の村に行かれました。常に福音を伝えようとされる方です。
☆神さまが私たちに求める生き方
- (警告)55節。弟子たちは、主イエスの力を自分たちの力であると考え、信じない者を滅ぼそうと思い上がりました。思い上がりは罪です。
- (警告)弟子たちは主イエスが焼き滅ぼすことを願うと思ったようです。主イエスを誤解しています。主イエスのことを誤解しないために、主イエスのことをたえず聖書から知る必要があります。
- (教え)色々な事態において、私たちがどうするかを考えるとき、主イエスならどうされるかを考えることも大切です。
- 自分たちを歓迎しない人たちがいる。その人たちにどう対処するのか。主イエスに焼き滅ぼすことを願うのがいいのか。それとも主イエスならどうされるかを思いめぐらして導きを得るのがよいのか。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神、サマリアの村は、主イエスを歓迎しませんでした。私たちの国もまた、必ずしも主イエスを歓迎しているとは思えません。多くの日本人は、自分は無信仰とは言いますが、神仏に願いをするのも事実です。俗に御利益信仰と言いますが、神仏は願いをかなえてくれさえすればよく、何か教えを与えられ、自分の生き方を束縛されるのは好まないようです。だからお寺でも祈り、神社でも祈ります。そういう人たちが私たちの伝道の対象ですね。伝道は一筋縄ではいきません。そして福音を伝えることは主イエスのご命令です。
あなたの導きを求めて誠実に取り組む、これが私たちのなすべきことですね。明日は、奈良高畑教会では、伝道礼拝が行われます。未信者の人に届く説教がなされ、新しく来た人を歓迎する雰囲気が教会に満ち、続けて教会の礼拝に出席する人が生まれるように、すでに求道者として出席している方が、信仰の告白へと導かれるように祈ります。
なおわたしは、G教会での説教奉仕で、今日も準備をします。私自身の説教も、未信者の人に届くような説教となりますように導いてください。
☆与えられた導き
・明日の礼拝を覚えて祈る。