ルカ福音書 6章1~11節
2018年4月19日
(内容)
- 律法学者やファリサイ派の人々からイエス様は、麦の穂を摘みもんで食べたこと、また手の萎えた人を癒やしたことをめぐって非難されました。
(黙想)
- 安息日の戒めは、エジプトで奴隷状態にあり、働きづくめで苦しんでいたイスラエルの民に与えられました。十戒の一つの戒めです。イスラエルの民は奴隷状態から解放され、自由に生きることのできる土地に向かって旅をしているときに神が与えた戒めです。神は休息を命じられるのです。安息日の戒めは人間のために与えられました。
- しかしファリサイ派や律法学者は、どんな働きが安息日の戒めを破ることになるのか、ならないのかを考え、安息日の戒めを破らないことに心を遣っていました。この戒めが人間に休息を与える意義を持つことが忘れられています。
- 私たちは何のために神の戒めを守るのでしょうか。私は守っていると誇り、満足するためでしょうか。神の戒めだから守らなければならないと考えるのでしょうか。それとも喜んで守るのでしょうか。もし「守らなければならない」と考えるなら、それは戒めのために人間がいることになるのではないでしょうか。
- イエス様は「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問いかけました。これは神の御心に私たちの目を向けさせる問いかけです。善を行う、命を救う、いずれも神の御心です。御心に反するような安息日の戒めの適用は間違いです。
- ファリサイ派や律法学者は、イエス様の問いを無視しました。問いかけから逃げました。イエス様の問いは、神さまの御心に立ち帰るよう招くものでしたが、彼らはその招きを拒みました。悔い改めへの招きを断ったのです。礼拝の説教もまた私たちへの問いかけ、という側面があります。問いかけに向き合っているのか、逃げているのか、問われます。
- イエス様は救い主としておいでになり、悔い改めて神に立ち帰るべきことを教えられました。自分は律法を守っていると主張する者たちは、神の御心に関心を持たない点、律法を守っていると自分の信仰を誇っている点で、二重の過ち、罪を犯しています。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエス様は神の戒めが人間のためのものであり、戒めのために人間がいるのではないことを教えられました。もし「守らなければならない」と考えるなら、その場合、戒めのために人間がいることになると思います。
- (御子)手の萎えた人を癒やされました。御子は、回復を与える方です。
- (御子)8~9節。イエス様は律法学者、ファリサイ派の人々の考えを見抜いています。イエス様は律法をめぐって問いかけました。イエス様の語ったことは、彼らに考えをあらためる機会を与えています。
☆神が求める私たちの生き方
- (教え)神の戒めが何のために与えられているのかをきちんと理解することは大切です。神の戒めは私たちの益となり、祝福となるものです。私たちは無意識のうちに神の戒めはむずかしくて実行できないなどと言い訳をします。その時は、なぜこの戒めを神さまが与えたのか考えることが大切です。
- (警告)7節。人を訴える口実を見つける態度はよくないです。人のあら探しをすることは罪です。それは人を愛することになりません。相手より自分を優位に置き、自分を誇る思いが、あら探しにつながります。私たちはつい、人を批判することがあります。人の欠点を見たら、むしろとりなしの祈りをするのが大切です。
- (警告)9節。律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様の問いかけに答えませんでした。自分が不利な立場に追いやられると感じてイエス様の問いかけを無視しました。自分を守ろうとしたのです。自分を守ることよりもっと大切なことは、神さまの前に正直であることだと思います。
(神の導き)
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