ルカ福音書 3章1~14節
2018年3月23日
(内容)
- 洗礼者ヨハネの活動が紹介されています。彼は差し迫った神の怒りを人々に伝え、悔い改めの実を結ぶように説教しました。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)神は救い主の先駆者としてヨハネを遣わしました。神さまは計画をもって救いの御業をなすお方です。
☆神が求める私たちの生き方
- (命令)悔い改めの実を結びなさい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、ヨハネは洗礼を受けに来た人々に対して、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と呼びかけました。罪の赦しを受けるために人々はヨハネのもとに来ました。洗礼を受け罪の赦しを受けるなら、罪を赦された者としてふさわしい歩みが始まります。始めるべきです。そこでヨハネは、悔い改めの実を結べと教えました。
- 天の父、自分の内にある悪しきことをやめ、それに代わる良いことをする、それが悔い改めにふさわしい実となりますね。私はクリスチャンとして長い年数生きてきました。あなたの教えを聖書から学び、それにしたがって歩むように努力してきました。現実の自分があなたの教えに背いて生きているとの自覚はありません。やめられない悪しき習慣もありませんし、むしろあなたの導きにより、罪を克服してきたと思っています。罪から清められる歩みをしてきたと思います。その意味では、今現在、悔い改めるべき悪しき行いをしているとの自覚はありません。
- でも天の父、私はある時教えられました。自分がどのようにあなたと向き合って生きているかということです。どれだけあなたに関心を向け、あなたのみ心に思いを向け、あなたとの交わりに生きているかということです。礼拝で長老が祈りをささげるのを聞きます。「日曜日にはみ言葉を聞いたのに、日々の歩みにおいてはそれを忘れ、自分の生活にかまけ、あなたを忘れて生きてきました」と罪を告白します。それなら説教された箇所の聖書を読み、どんな説教を聞いたのか思い出したり、日々聖書を読んで、あなたのみ心に思いを向ける努力をすればいいのにと思うことがよくあります。
- 説教を思い出さず、聖書を読まない生活は楽であり、自分の生活にかまけ、自分中心の生活に私たちは陥りやすいです。ですから私は、聖書を読み、思いめぐらし、そこからあなたの導きを得ようと努力しています。あなたのみ心に聞き従う努力をしています。でもそれは言い換えると、つい生活に流されたり、自分の関心ある事柄にかまけ、あなたを忘れてしまうという罪が私の中にあることを示しています。聖書を読むことを面倒だとさえ思う罪が私の中にあることを知っています。
- 悔い改めの実を結べ、と今日の聖書から促しを受け、何を悔い改めたら良いのか、と考えます。そして思わされたことは祈りに重きをおく、ということでした。たとえば、説教の準備をする時に必要なことが二つあります。一つは祈りです。説教の準備をあなた(聖霊)が導いてくださるようにとの祈りです。今ひとつは人間的な努力です。理性を用いた働きといえます。聖書を読み、それが何を語っているのかを理解します。そのためには、ギリシャ語で聖書を読み、あるいは注解書などを読みます。さらに思いめぐらします。これは人間としてなす努力です。この努力をする時、心の中では導きを祈っています。祈りと理性の関係を考えます。
- 説教以外にも、自分が抱えている問題をいかに解決したらよいのか、考えることがあります。聖書はいかに語っているのかも考えます。聖書と対話しながら、解決を求めて考えます。解決を求める日々が長く続き、悩みが続きます。ある時、自分の心の中で考えるのを中断して単純に祈った時、祈りの中で腑に落ちる解決が与えられたことがありました。その解決は頭の中にすでにある答えでしたが、心がまだ納得していませんでした。祈りを通して聖霊が働いてくださり、心が納得する答えとなりました。
- このことを思う時、祈りよりも理性に重きをおいてきたような気がします。今度の日曜は、説教奉仕があり、今準備をしています。聖書を読んで色々な思いがあり、福音として伝えるべきメッセージが何であり、それを伝えるためにどうするか、思いめぐらしています。今日は、頭の中で思いめぐらすことをやめ、あれこれ考えることを祈りとしてノートに書くことにします。書いていく中で、あなたの導きが与えられることを期待します。
☆与えられた導き
- 祈りに重きをおくよう悔い改める。
- 祈りつつ思いめぐらし、それをノートに書く。ノートに書きながら思いめぐらし祈る。