列王記下13章1~7節
2017年9月29日
(内容)
イエフの子ヨアハズがイスラエルの王となりました。彼はネバトの子ヤロブアムの道を離れませんでした。そこで神は怒り、アラム軍にイスラエルを侵略させ、イスラエルを圧迫させ、イスラエルに苦しみを与えました。ヨアハズは主をなだめたので神はひとりの救い手を送り、イスラエルはアラムの支配から解放されました。
(黙想)
- イスラエルの王はまたもヤロブアムの道を歩みました。ヨアハズはイエフの子です。イエフは主なる神の導きによって王となり、バアル礼拝をイスラエルから排除した王です。主を信じる生活をしたのです。しかしイエフもヤロブアムの道は離れませんでした。ヨアハズの子ヨアシュは、預言者エリシャが死にそうなとき、エリシャを訪れ泣いています。ということは、エリシャのことは、イエフからヨアハズへ、ヨアハズからヨアシュへと語り継がれていたと思います。主の預言者エリシャのことを聞いても、ヤロブアムの道、像を造って神を礼拝することを続けました。
- 神はイスラエルに対して怒りを燃やされました。具体的には、アラム軍を用いてイスラエルを侵略させたのです。12章では、アラムはユダを侵略したとありました。ユダの王のヨアシュは貢ぎ物をアラムに送り、降伏しました。イスラエルはアラムの侵略に苦しみ続けました。神さまは、イスラエルの苦しむ様子を見て、憐れみを覚えました。その時、王のヨアハズは「主をなだめた」とあります。何らかの形で悔い改めたのだと思います。「なだめた」とあるので、悔い改めを形に表したのです。おそらくいけにえを神に献げたのだと思います。神はヨアハズの悔い改めを受け入れ、救い手を送り、アラムの支配からイスラエルを解放しました。
- 神はイスラエルを裁きながら、苦しむイスラエルを見て憐れみを覚える方です。罪を裁くだけの厳しい神ではないことがわかります。この憐れみ深い神は、罪人を救う神であり、イエス・キリストをお遣わしになりました。神は憐れみ深い方であることを知らされます。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- 神は罪に対して怒るお方です。
- 神は憐れみ深い方です。悔い改める者を憐れんでくださるお方です。
☆神が望まれる私たちの生き方
- (警告)私たちが苦しみに直面しているなら、それは神さまが悔い改めを求めているしるしなのかもしれません。
- (勧め)悔い改めるべきことがあれば、神の前に悔い改めの祈りをし、自分の歩みを変えることが大切です。
(神の導きを求めて)
☆祈り
- 天の父なる神、今朝もデボーションをすることができて感謝します。今日は悔い改めるべきことがあれば悔い改めなさいと教えられました。昨日、催促のメールが来ました。来月、H教会で礼拝説教をする予定になっており、説教テキスト、讃美歌を知らせてくださいとのメールを受け取りながら、返事をしないでいました。私からの連絡が行かないので、やきもきされたと思います。そんな思いにさせたことを申し訳なく思いましたが、昨日は早速返事をし、それで済ませました。でも今日、ハッキリと悔い改め、二度と相手にやきもきさせるようなことをしてはならない、と悔い改めるべきと教えられました。自分が逆の立場だったら、辛いと思います。神さま、どうぞ赦してください。そして二度と同じことをしないと心に誓います。
- イスラエルの王はヤロブアムの道を離れずに同じ罪を繰り返しました。この罪から離れられないのです。罪の奴隷になっていると言うことができます。ヤロブアムの道を離れなかったという記述が列王記で続くのを読んで、似ていることがあるなと思うことがあります。それはクリスチャンの祈りの中に見られるものです。自分の弱さを告白し、罪に負けてしまうことの赦しを神さまに祈り求めるのです。この祈りを何度も聞きました。罪を言い表す点では謙遜なのだと思います。しかし、罪に勝利させるキリストの恵みを知らないのです。それがいつも残念に思います。クリスチャンの祈りを聞いて、神さまはその時、どう思われるのでしょうか。聖霊を賜物として与えているのに、と残念に思っておられるのではないでしょうか。人は同じ事を繰り返し、そこから抜け出ることができないとすれば、それは一種の束縛ですね。新しく開設するサイトに、この点について論じる文章を書くことにします。
☆与えられた導き
- 悔い改めの祈りをする。
- 新しいサイトに文章を書く