ヘブライ人への手紙 5章1~10節
2018年1月5日
(内容)
キリストは大祭司の務めを神から与えられました。キリストは多くの苦しみを通して従順を学ばれ、完全な者とされ、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれました。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)7節。肉において生きている時、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に祈りと願いを献げられた方。
- (御子)7節。父なる神に対して、畏れ敬う態度を保持する方。
- (御子)8節。多くの苦しみによって従順を学ばれた方。
- (御子)9節。ご自分に従順であるすべての人々に対して、救いの源となられた方。
- (御子)10節。神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれた方。
☆神が求める私たちの生き方
- (模範)8節。多くの苦しみを通して従順を学ばれたキリストは私たちの模範である。
(黙想)
- 主イエスは神から与えられた救い主として働く召しを自覚していました。救い主としての働きは自動的にできるものではありません。主イエス自身苦しみを通して神さまへの従順を学ばれました。人として神を畏れ敬い、従順に歩まれました。しかも苦しみを味わいながら従順を尽くし、その働きを全うされました。その典型は十字架です。ゲッセマネの園で「苦い杯を取りのけてください。しかし御心を行ってください」と自分の願いを祈りながらも、神さまのみ心に従う気持ちを表されました。十字架の死に向かって歩まれました。「それはむずかい」「それは無理です」などとの言い訳は一言もありませんでした。神さまを畏れ敬っておられます。信仰とは、神さまとの交わりに生きることですから、常に神さまを畏れ敬い、従順に生きることは大切なことです。
- 激しい叫び声をあげて祈ったとあります。これは十字架上での叫びと思われます。人類の罪の贖いのいけにえとして自らをささげ、神に見捨てられる死を遂げようとしながら、なお神に向かって祈られます。神に見捨てられる時にもなお神に祈るという姿勢。信仰の極みと言うことができます。主イエスはさまざまな苦しみを味わい、試練を経験し、あらゆる苦しみ、試練の中にある人々に対しても救いとなられ、「大丈夫だよ」と励ましてくださいます。大祭司として我らを顧み、思いやり、励ましてくださる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ヘブル書は地上を歩まれたイエス様の姿を目に浮かぶように描き出します。イエス様は何の苦しみもなく、何の問題もなく、たやすく救い主の働きをしたわけではなく、苦しみを通して従順を学ばれました。私たちもまた神さまを畏れ敬い、従順を尽くしたいと考えます。
- 今の私はどのように従順に歩んだらよいのでしょうか。今日の聖書でイエス様は激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、あなたに願いをささげられました。それはご自分のためではなく、人々の救いのためであり、人々を救うために召された働きを遂行するための祈りでした。それはまた激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、あなたに助けを求める人たちの姿に重ねることができます。人は皆助けを必要としています。
- 正月多くの方から年賀状を頂きました。今までは年中行事として年賀状のやりとりをしていましたが、今年は別の思いを持ちました。年賀状をくださった方のために祈るようにとの促しを与えられたように感じています。十字架の上での叫び声のような祈りではありませんが、年賀状をくださった人たちを覚えて、静かに祈りたいと思いました。感謝します。
☆与えられた導き
- 年賀状を読み、それぞれの人を祈りのノートに書いて、この一年祈ることができるようにする。