ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節
2017年7月12日
(内容)
クリスチャンを迫害していたパウロが一転してキリストを宣べ伝える者、福音を宣べ伝える人にされました。そこには神の導きがありました。神は、イエス・キリストが誰なのか、パウロに示されました。パウロはイエス・キリストの啓示を受けて、福音を知り、これを宣べ伝える者とされました。「啓示」とは、隠されたいたものが明らかになることを意味します。イエス・キリストが誰か隠されていたのでパウロは、クリスチャンを迫害していましたが、イエス・キリストが誰か明らかにされたとき、彼は、イエス・キリストを、福音を宣べ伝えるものとされました。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- 神は私たちに啓示を与え、私たちを信仰に導く方です。私たちの信仰の歩みを導く方です。
(黙想)
- 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一12:3)。教会の礼拝に参加し、説教を聴き続けるとき、イエス様が救い主であることを繰り返し聞きます。イエス様が救い主であるとの知識を得ることができます。だからといってイエス様を信じる信仰生活に踏み出すことができるわけではありません。イエス様が、わたしの救い主であるとの認識は、聖霊が導いてくださるものです。説教でいくらイエス様が「あなたの救い主である」と聞かされていても、聖霊の導きがなければ、「イエス様がわたしの救い主であること」は隠されたままです。聖霊の導きにより、隠されていたことが明らかにされ、イエス様が私の救い主であることが分かり、私たちは信仰に導かれます。
- そこで思うことは教理です。教理は、私たちが信ずべきとを教えます。教理を学ぶことは大切です。もっと大切なことは、その教理が私を生かすことをはっきりと知り、生かされることです。教理を知っているだけでは、その教理に生かされることにはなりません。ただ教理を知っているだけです。教理が私たちを本当に生かすという事実に目が開かれることが大切です。
- 今週日曜、奈良県内の教会で説教の奉仕をしました。説教のテキストとなった聖書には「そこから主イエス・キリスト救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3:20)とありますが、私たちは本当に待ち望んでいるのだろうか。どうしたら待ち望むことができるのか、と私は自分に問いかけました。一つの結論は、キリストがおいでになったときに起きることを、今、待ち望んでいれば、待ち望む者となるということです。私自身は、神さまからこのことを教えられたように思います。
- この地上の歩みで、イエス・キリストに似た者となることを願い、それを求める歩みをする人は、キリストの再臨を待ち望むことができます。ハイデルベルク信仰問答で「身体のよみがえりはあなたにどのような慰めを与えますか」との問いがあり、それに対して「・・・やがてわたしのこの体もまた、・・・キリストの栄光の御体と同じ形に変えられるということです」。イエス・キリストに似た者となることを目指す歩みをしている信仰者は、キリストがおいでになると、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられるので、これを喜ぶことができますし、地上の信仰の歩みにおいて、キリストに似た者となることに励まされます。
- 神さまが私たちの心を照らし、私たちの目を開いてくださらないと、イエス・キリストに似た者となることの幸いを知り、これを目指すことができないと思います。一つの教理がどんなに恵みの教理なのか、神さまが私たちに啓示してくださらないと私たちは知ることができません。それなら「最後の審判」の教えは、なぜ恵みの教えであり、私たちをどのように生かすのか、実際に私はどのように生かされるのか、神さまが明らかにしてくださるように祈り求めよう。
(神の導き)
☆与えられた導き
- 最後の審判の教えが恵みの教理であること、これを知ることによって私自身の歩みが変えられることを神さまの祈り求めていく。