マルコ福音書 15章33~41節(1) イエスの叫び
2023年1月14日
(内容)
- イエスは十字架にかけられた。イエスは死ぬ前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた。
(黙想)
- マルコだけが、9時にイエスが十字架につけられたと書く。12時頃、全地が暗くなり、15時にイエスは亡くなる。イエスの死を最後まで見守ろうとするなら、6時間以上ゴルゴダの丘にいたことになる。
- 主イエスが十字架につけられた後、イエスを罵った人たちは、いつ刑場を去ったのだろうか。死ぬのはわかりきっているので、すぐに去ったのかも知れない。12時頃、全地が暗くなったという。丘にいて見守っていた者たちは、ただならぬ思いに導かれただろう。何かが起きるかも知れないと恐れおののいても不思議ではない。だが時が過ぎていくだけである。そして3時頃、イエスは大声を上げて亡くなる。印象的な場面であり、
- イエスの叫びに心が留まる。なぜ、わたしを見捨てたのかとイエスは叫んだ。神に見捨てられる、それは絶望である。人は絶望の中で、神はいると思っていたが実は神はいなかった、いると思っていたのは自分の錯覚であったという思いに導かれても不思議ではないと思う。絶望の果てに助からないのだから、実は神はいなかったと考えても不思議ではない。そう考えたくなる。イエスの場合は、神がいるのに神は自分を絶望の中に追い込んで、自分を見捨てるのである。神はいないも同然である。
- 12時頃に全地が暗くなり3時まで、イエスは心の中で神に見捨てられる絶望を感じていた。だから、神はいないのではないか、神の御心を信じ、神のみ心に従って生きてきたのは錯覚かも知れない、そんな思いもイエスの心に去来したかも知れない。しかしイエスの最後の言葉は、「わが神、わが神」。絶望の中にあっても、イエスは神を信じていた。神はいない、神を信じたのは錯覚であったなどという思いにはならなかった。
- 信仰には懐疑が伴うものである。この懐疑を越えて信じるのが信仰と僕は受けとめている。イエスは懐疑を越えたというより、神と深く結びついている。
- イエスは罪の贖いのために神の怒り、裁きを受けた。それは神に見捨てられるというものであった。私たちの救いのために、イエスは神に見捨てられるという絶望を味わい、贖いの業を成し遂げた。神はイエスを復活させ、その絶望からイエスを引き上げた。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>十字架上で、主イエスは深い絶望を味わったが、神に対する懐疑にとらわれることはなく、神との関わりに生き抜いた。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>どんな絶望・懐疑の中にあっても、イエスのように神との関わりに生き抜くこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、主イエスのお姿に注目しました。深い絶望の中にあっても、神などいないという虚無に惑わされることなく、あなたとの関わりに生き抜かれました。あなたに見捨てられてもなお、見捨てられた者として、あなたとの関わり、交わりに生きました。
- この主イエスのお姿は心に残ります。この主イエスのあなたへの信仰を見倣いたいです。
- まず、ブログにこのことを書き、自分の願いを書いてみたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 主イエスの信仰についてブログに書く。