マルコ福音書 14章32~42節(1)死を悲しむ
2022年12月9日
(内容)
- イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネの園に行き、祈られた。
(黙想)
- イエスは3人の弟子を連れて、ゲッセマネの園の奥に行かれた。そして「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語り「目を覚ましていなさい」と命じた。
- 「死ぬばかりに悲しい」気持にイエスはなぜなったのか。何が悲しいのか。イエスの祈りの最初の言葉は、「この苦しみの時が過ぎ去るように」であった。次に「この杯を私から取りのけてください」と祈った。いずれも十字架の死を避けさせてくださいとの祈りである。イエスの悲しみは、十字架の死と結びついている。
- 何が悲しいのか。イエスの気持ちは、推測するしかないが、推測でしかない。しかし推測することに意味はある。
- イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだ。神に見捨てられる絶望を味わった。その絶望がこの叫びとなった。
- 神に見捨てられたときに感じる感情は何か。悲しみはその絶望に伴う感情と言える。神を信じればよかったとの悔いを感じることもある。自分には見捨てられる理由がないと、見捨てるものへの怒りが生じる場合がある。しかしイエスは、父なる神の御心に従い十字架に向かうのであるから、十字架の上での絶望から怒りは生じないし、悔いも生じない。
- この絶望以外に、何かイエスに悲しみをもたらすものがあるのか。何が考えられるか。十字架の上での絶望を予感して悲しく思っているのではないか。
- イエスは「この苦しみの時が過ぎ去るように」と祈られた。イエスは苦しみを味わうことを予感している。「この杯をわたしから取りのけてください」との祈りは、この苦しみを味わわなくてすむようにとの祈りである。「父よあなたは何でもおできになります」と祈っているから、人間を救うための手段が他にあるなら、それを行ってくださいとの意味になる。しかし、御心に適うことが行われるようにと祈られた。自分の願いより、御心の実現を優先された。
- イエスが、自分の願いを祈ったことは、神の前で祈る時、自分の思いを祈ってよいことを教えられる。キリスト者は御心にかなう祈りだけを祈るのではない。自分の願いを祈ってよい。いや何を祈ってもよい。
- 我々もまたいつの日にか死ぬ。それもまた悲しい。世を去るのも悲しい。親しい者と別れるのも悲しい。でも死を避けることはできない。罪を犯した結果、我々は肉体の死を避けることはできなくなった。キリスト者にとって死はしかし、御国への扉でもある。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>十字架の死を前にしてイエスは御心がなるように祈る方。
- <御子>十字架の死を前に、神に見捨てられる絶望を予感して悲しまれるお方。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、主イエスは死を前にして悲しまれました。人を救うために人の罪を背負い、あなたに見捨てられる死に直面するからです。主イエスは十字架の上で肉体の苦痛も味わいながら亡くなります。
- 私も老い、死が遠くないことを思います。今、知人が緩和ケア病棟で療養しています。自分の命の終わりを待ちながら過ごしています。あなたにすべてをゆだねて命の終わりを迎えようとしています。ある言い方をすると悲しい時を過ごしています。でも御国に向かう希望の時を過ごしています。
- 主イエスを思うとき、死を前にして悲しんでもよいと思いました。悲しんだ上、希望に立てば良いと思います。
- この黙想の記念にこの内容をブログに書き、自分へのメッセージとしたいと思います。
☆与えられた導き
- 黙想の内容をブログに書く。