マルコ福音書 8章27~30節 イエスは誰か
2022年6月18日
(内容)
- イエスは弟子たちに、他の人たちは自分のことを何と言っているのかを尋ね、その後で、弟子たちは自分のことをだれだと思うかと尋ねた。
(黙想)
- イエスは誰か、どういう方か、これにどう答えるかで、イエス・キリストを信じる者か、そうでないかが決まる。イエスは愛に生きた人であると考える人、社会的な弱者の味方として生きた人と考える人、人によって答えは違う。
- キリスト者は、イエスは十字架の上で自分の命を犠牲にし、私たちの罪の贖いとなってくださったこと、そして死者より復活され、天に上げられたことを信じる。
- この場面で弟子たちは、イエスのことをメシアと答えた。でもそのことを誰にも話さないようにとイエスは注意された。メシアであることは確かであるが、このメシアとはどういうメシアなのか、弟子たちはまだ知らない。だから話してはいけないと注意された。
- 私たちは聖書からイエスがいかなる方かを教えられる。イエスをどのような方と受けとめるか、それによってキリスト者の生き方も変わってくる。その意味で、どのような告白をするかは大切である。キリスト者の生き方の中に、どのようにイエスを信じているのかが現れてくる。説教者がイエス・キリストをどのような方として語るのか、非常に大切となる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>私たちに、「私を何者というのか」と問う方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>自分がイエスをどのような方と信じているのか、明確にする
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私が主イエスをどのように信じているのか、ブログに書いてきましたので、それを読み直してみたいと思います。そしてどのような方と告白しているのか、箇条書きにして自分の信仰を確認したいと思います。
- また主イエスは教会の頭と聖書にあります。「教会の頭なる主イエスの父なる神さま」という呼びかけを礼拝の祈りで何度も聞きました。一種の決まり文句のようにして祈られていました。主イエスは、教会の頭としてどのように働かれるのか、それが明らかでないと、この決まり文句は決まり文句で終わってしまいます。つまり空しい言葉になってしまいます。主イエスがどのような方かを知って、教会の頭であると告白したいと思います。
- 教会の頭である主イエス、このことをまとめることを課題としたいと思いました。
☆与えられた導き
- ブログを読み直し、自分がどのように主イエスのことを信じているか確認する。
- 教会の頭であることをきちんと理解することを課題とする。