マタイ福音書 7章24~29節 岩を土台とする家

2022年2月11日

(内容)

  • どんな土台の上に家を建てるのか、賢い人と愚かな人のたとえが語られる。さらに人々はイエスの教えに権威があるのを感じて驚いたと説明されている。

(黙想)

  • 山上の説教での最後の教えになる。どんな土台の上に家を建てるかが教えられる。賢い人と愚かな人が比較される。どんな土台の上に家を建てるか、それが問題となる。岩の上に家を建てるか砂の上に家を建てるか。岩の上に建てれば土台がしっかりしているし、砂という土台は不安定である。
  • 雨が降り、川があふれ、風が吹いてきたとき、言い換えると嵐が襲ってきたときに、違いが現れてくる。岩の上に建てた家は倒れなかったが、砂の上の家はひどい倒れ方をした。人生には色々なことが起きる。何が起きても人は倒れることなく生きていけるか、そこで倒れてしまうのか、それはどんな土台の上に家を建てるかによって決まる。そしてイエスの語る言葉を聞いて行う人が、岩の上に家を建てた賢い人であるり、聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人だという。
  • 嵐が襲うことは必ずあるが、自分が嵐に遭遇するとは限らないので、砂の上に建てた家で生きている人たちは沢山いる。天の父の御心を行う人こそ、岩の上に家を建てる賢い人である。
  • 群衆はイエスの教えに非常に驚いたとある。律法学者のようではなく、権威ある者として教えたからと理由も書かれている。この違いはどういう違いなのだろうか。
  • 群衆は律法学者の教えがどんなものかおそらく知っている。律法学者たちは自分たちの知識を誇っていたと思う。そして聖書にこう書かれているから、それを守りなさいと教えていたのではないか。おそらくその教えには深みがない。人を納得させるものがない。そのうち以前も聞いたことがあるとの感想が生まれる。
  • イエスの教えは律法学者たちの教えとは違うという印象を群衆に与えた。そしてイエスの教えにはその通りだと納得するものがあり、群衆は深い真理を聞いた思いをしたのではないか。そしてそれに従ってみたいと思わせる権威のようなものを群衆は感じたのではないか。群衆がその後どうしたのかは分からない。後に群衆はイエスを「十字架につけよ」と叫んでいる。
  • イエスは、私の言葉を聞いて行いなさいと教えている。我々がイエスの教えを教えるとき、律法学者のように教えるのか、権威ある者のように教えるのか、それが問われる。
  • イエスは良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶと教えた(7:17)。イエスの言葉を聞いて行う人は、自分が良い木であることを知ることが大切だ。良い木とは何か。天の父の御心を喜んで行おうとする人である。キリストを信じる人は、このような人にされていることを信じることが大切だ。人は自分の努力でこのような人にはなれない。
  • 私たちはイエスの話を直接聞くことはできない。しかし礼拝において説教を聞く。その時、説教者が権威ある者のように語っていると感じるときはある。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>権威ある者として教える方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスの言葉を聞いて行うこと
  • <警告>聞くだけで終わらせてはいけない

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、御名を崇めます。今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲うとあります。私自身を考えると「老い」という嵐が私を襲っているように思います。強い風のために少し揺れました。老いとは、死を待つときではなく、私たちを天に迎えてくださる神さまの召しを待つときであり、召しを待ちつつ生きることであると気づかされました。揺れは少なくなったと思います。
  • しかしこの先何が起きるのかは分かりませんし、その時どうなるかは分かりません。ただ私は、こうして聖書を読み思いめぐらしつつ、あなたの導きを得て生きることを教えられているので、心配はしてしません。あなたを崇めつつ、あなたが真実な方であると信じつつ日々を歩んでいきたいと思います。最後の時まで聖書を読んで生きることができればと願います。このことを祈りたいと思います。
☆与えられた導き
  • 終わりの日まで聖書を読み続けることができるように祈る