マルコ福音書 5章21~34節 必死の思い
2022年2月1日
(内容)
- 12年間も出血の止まらない女性が、イエスのもとに来た。そしてイエスの服に触れさえすればいやされると思い、触れた。すると癒やされた。イエスはこの女性に「あなたの信仰があなたを救った」と語られた。
(黙想)
- ここに登場する女性は、ある意味絶望的な状況にあった。病気を癒やすために全財産を使ったが、病気は治らなかった。これはつらい。そして状況が改善する見通しもなかった。そんな時、彼女はイエスのことを知る。
- 彼女は切羽詰まってイエスのもとに行った。彼女は「この方の服にでも触れさえすればいやしていただける」と考えた。イエスを信じたのである。そしてイエスの服に触れ、いやされた。彼女は必死であった。そしてイエスを信じていた。イエスの内から力が出ていったとある。
- 私たちは残念ながらイエスの服に触れることはできない。しかしイエスの名によって祈り願い求めることは許されている。祈ることはできる。この物語のメッセージは何か。一つは必死に求めることの大切さを教えている。イエスは神の国をもたらしていることも伝えている。
- この女性の癒やしは、イエスと彼女が向き合い、イエスにいやしを求め、イエスがそれに応えるという形で行われていない。彼女がイエスの服に触れるとイエスの内から力が出ていった彼女は癒やされた。イエスは彼女を放置しない。「誰が私に触れたのか」と問い、彼女に名乗らせた。そして言葉をかけて彼女を去らせた。イエスは出会いを求めておられる。
- 自分は必死になってイエスに求めているのかと考えさせられる。必死ということはそれなしには生きていけないとの切羽詰まったものがある。緊急の祈りの課題である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>出会いを求めるお方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>必死に求める
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、長い間出血に悩んでいた女性が、その癒やしを必死になってイエス様に求めました。そしてその癒やしを得ることができました。
- 私自身を振り返るとき、かつては必死に求めたものがありました。聖書を理解したい、聖霊を与えられたい、神の存在の確かさを持ちたい、など必死に求めてきました。
- しかし今、必死になって求めるべきものがあるかと考えます。何が何でもこれを導いてもらわなければと切羽詰まった思いは特にありません。しかし老いを受けとめて生きることは今の私の課題です。老いを迎えての心の変化、体の変化の中で、落ち着いて老いを受けとめるには必死の祈りが必要なのかもしれませんね。老いの時期は、内的、外的変化もありますから、その都度、生じた問題の解決を切に祈ることが必要となりますね。老いを感じ、戸惑うことを具体的に挙げて祈り、平安を求める。
- 必死に祈るべきことがありました。それは福音理解の問題です。福音を狭く理解するのではなく、福音が余すところなく宣べ伝えられること、これは必死に祈るべきことでした。これだけでは漠然としていますし、祈りが聞かれているかどうか分かりません。そこでA牧師が福音を余すところなく宣べ伝えることができるように必死に祈りたいと思いました。
☆与えられた導き
- 老いを受け入れるために必要な課題を列挙
- A牧師が福音を余すところなく宣べ伝えることができるように必死に祈る