第二コリント 12章11~18節 私たち自身を求める神
2022年1月28日
(内容)
- パウロはコリント教会を愛する真意を述べ、自分が教会に経済的な負担をかけなかったことの理由を語る。負担をかけなかったことをコリント教会はパウロの使徒としての権威の欠如と誤解したようである。
(黙想)
- パウロは自分がコリント教会の人たちの信仰の親と理解している。だからコリント教会に経済的な負担は求めなかった。ただ彼らが信仰の子として、成長することだけを願っていた。そのことはコリント教会の人には理解されていなかった。
- そもそもキリストの教会が初めて誕生したのであり、教会の創設者と信仰者の関係はどうあるべきなのか、それは確立していない。そこで誤解が生じる可能性はあるし、パウロとコリント教会の間では誤解が生じた。それは偽使徒たちが関係している。
- パウロとコリント教会の関係は信仰における親子の関係である。パウロは親子のことをたとえとして語り、親は子に経済的なものは求めないとして、自分がコリント教会に負担をかけなかったと真意を語り、誤解を与えたことについて赦しを求めている。コリント教会との関係回復を願って、自分を低くしている。謙遜な愛を見る。
- パウロはあなたがた自身を求めていると語る。キリストを宣べ伝える伝道者は、信仰者がキリストの者となることを求める。そのことを「あなたがた自身を求める」と語る。これはどの伝道者も課題とすることである。
- そして私自身は、神が求めるものとなっているのかと考えさせられる。神が求める信仰者として生きているのかと思う。もちろんそうでありたいと願っているし、そのように歩んできたつもりでいる。
- 讃美歌142番に「ただ身とたまとを ささげてぬかずく」とある。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>私自身を求める方
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロはコリント教会の人たちの持ち物ではなく、彼ら自身を求めていたと語ります。パウロはキリストを宣べ伝えました。コリント教会の人たちはキリスト者になりました。キリスト者とは、自分自身を神にささげる人であると知らされます。コリントの信者たちがキリスト者として自分自身を神さまに献げる人となることをパウロは求めていました。
- 信仰者が自分自身をあなたにささげて生きているかどうかは、常に問われることだと思います。私は牧師として歩み、ある意味人生をあなたにささげてきました。今は牧師の務めから退き、ひとりの老いた信仰者として生きています。この私は自分をあなたにささげて生きているのでしょうか。
- 年老いた者にとって、あなたに自分をささげるとは、あなたにすべてをゆだねて生きること、全幅の信頼をあなたにおいて老いを生きることと理解します。自分の力に頼らず、あなたに信頼し、平安に生きることが自分をささげることではないかと思います。自分の力に頼るとき、老いの時期は、恐れや不安が迫ってきます。
- そして実際に私は不安に襲われましたし、憂うつな気持ちにもなりました。あなたにすべてをゆだねていないのだと思いました。それゆえ、「私はあなたにすべてをゆだねます」と日々告白する必要を思います。そしてゆだねる生活が身につくことを願います。
☆与えられた導き
- 日々告白して過ごす。