ヨハネ福音書 1章14節 栄光を見た
2021年12月28日
(内容)
- 父の独り子としての栄光を見たとヨハネは語る。
(黙想)
- 栄光を見ると言っても、肉眼で見るわけではなく、心の目で見ると言うべきだろう。栄光を見る、というと何か輝くものを見ることをイメージするが、キリストの輝く姿を幻で見るということなのか。仮にそのような姿を見たとしても、それは単なる神秘的な経験でしかない。神秘的な経験は、僕にとっては、思い出となるだけだと思う。栄光を見るとはどういうことなのか。
- オリンピックで、金メダルをとった選手がいるとする。授賞式は晴れやかな場面であり、選手にとって栄光に満ちた場面かも知れない。しかし観客にとっては、彼が競技の中で持てる力を発揮している場面こそ、彼の栄光を見る場面と言えるのではないか。彼はこの点で素晴らしかったと観客は言うことができる。選手が金メダルを首にかけている姿を見ても感動はしない。競技している場面こそ、感動を与える。素晴らしい能力を発揮している場面こそ、彼の栄光が輝く場面である。そこには光り輝くものがあるわけではない。競技している具体的な姿が見える。その姿の中に選手のすばらしさ・栄光を見るのである。
- 以上はたとえである。父の独り子の栄光を見るとはどういうことか。それは独り子の働きを見、その働きにあずかることである。その時、私たちの生きかたが変えられるなら、信仰者としての歩みが始まるなら、私たちは救われたのであり、そこに独り子の働きを見たことになる。自分がどのように変えられたのか、それを言い表すことは、それは独り子の働きにあずかり、証しすること、独り子のすばらしさ、栄光を語ることになり、栄光を見たこととなるのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>独り子としての栄光を持つ方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>独り子の栄光を見てみよう
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日の聖書を読んで、自分は独り子の栄光を見たのかと思いました。今までこの「栄光を見た」という聖書の言葉は知っていましたが、この言葉に向き合うことはしてきませんでした。そこで今回は、独り子の栄光を見たいと思いました。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを主と仰いで生きてきましたから、意識すれば主の栄光を見ることができると思います。そしてこの聖書箇所を読んだ今、主の栄光を見ようとしなければ、生涯見ずに終わってしまうと思います。
- 救い主イエス・キリストからどのような恵みを受け取ったのか、それを明確化すれば主の栄光を見ることができると考えました。信仰生活を振り返り、主の栄光を見てみたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 信仰生活を振り返り、主の栄光を見る
~~~~~~~~~~
わが身を振り返るなら、キリストを信じて永遠の命を与えられ、御言葉に生きる者となった。日々御言葉という恵みを与えられ、心の底に平安と喜びを与えられた。父なる神に従順に生きることを教えられた。そしてキリストに結ばれ、神の子として生かされた。何よりもキリストの十字架の死のおかげで罪赦された。
- キリストは命を与える方。
- キリストは御言葉によって導く方
- キリストは喜びと平安を与える方
- キリストは私とつながり、私を神の子としてくださる方
- キリストは自らの命を犠牲にし、救ってくださる方。
キリストの中に素晴らしい救い主を私は見た。
私はキリストの栄光を見た、と言っていいのではないか。