マルコ福音書 2章1~12節 イエスは誰か

2021年7月26日

(内容)

  • イエスがカファルナウムの家にいることが知られると大勢の人が集まってきた。そこに中風の人が連れてこられ、イエスは「あなたの罪は赦された」と言われた。

(黙想)

  • イエスが病を癒やし、悪霊を追い出すことが人々に知られ、イエスのいるところに大勢の人が押し寄せるようになった。イエスが御言葉を語っておられるところに中風の人が連れてこられた。ある意味、御言葉を語るイエスの働きが邪魔されていると言える。
  • 中風の人が連れてこられたことをきっかけにしてイエスは、御自分がいかなる方であるかを明らかにする。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語る。そして中風の人に向かって「床を担いで家に帰りなさい」と命じる。中風の人は癒やされ、人々はこのようなことは見たことがないと言って驚き、神を賛美したとある。イエスは罪を赦す権威を持っていることを証明したといってよい。
  • 2章の出だしを読むと、大勢の人々がイエスのもとにやってきて、イエスの語るのを聞いていたとある。イエスは病気を癒やし、悪霊を追い出して人々を驚かせただけではなく、権威ある者として教えられた。人々はいやしを求め、悪霊の追い出しを求め、さらに教えを求めてイエスのもとにやってきた。
  • そしてこの場面では、イエスは、御自分が罪を赦す権威を持っていることを示された。律法学者たちは、神だけが罪を赦すことができると考えている。神の権威を自分が持っているとイエスが語ったので、律法学者たちはイエスは神を冒とくしていると考えた。
  • そもそも罪を赦すとは何を意味しているのか。神との関係に生きている場合、罪は神との関係を壊すことにつながり、神からの祝福を期待できなくなる。神の裁きを招く可能性が生まれてくる。それゆえ罪を犯したのなら、罪の赦しを求めることが大切となる。人間関係においても、相手に対して罪を犯したとき、相手の赦しを得なければその関係が壊れてしまう。赦しは他者との関係に生きる上で必要な事柄である。
  • 赦しというのは関係を持っている者どうして問題になることである。イエスは神と人間の間の関係について語る。神に対して犯された罪を赦すことができるのは、確かに神だけである。だからイエスは、私は神であると宣言したに等しい。
  • 旧約聖書では罪を犯した場合、神に対していけにえを差しだし、罪の償いをして赦しを求めることが律法で定められていた。祭司は、いけにえを神に献げる働きをし、いわば罪の赦しを仲介する働きをしていた。
  • 律法学者たちがイエスは神を冒とくしていると考えたのはもっともである。イエスは人間である。自分に人の罪を赦す権威を持っていると語るのは人間としては越権行為である。しかしイエスは後に十字架の上で自分の命をささげた。神が人となり、自ら罪を償う供え物となったと聖書は語る。そしてイエスは神であったと聖書は語る。
  • この場面で、「人の子が罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とイエスは言った。イエスはどんな思いでこの発言をしたのか。神はイエスを救い主としてこの世に送った。人間を何から救おうとされたのか。それは罪からの救いである。罪の赦しは神との関係を回復するために必要なことであり、イエスはそれを可能にするのである。
  • イエスは神の国は近づいたと神の御支配を語った。病気の癒やしや悪霊を追い出して、神の御支配が現実であることを示された。人々は病気や悪霊で苦しんでいたし、イエスは神の御支配を示して人々を助けた。そして人間はさらに重い病を抱えている。罪である。イエスとしては、人々を神との関わり、神との交わりに生きるように招いていると言ってよいのではないか。
  • マルコはこの段落を通して、何を伝えたかったのか。福音書の冒頭に「神のイエス・キリストの福音の初め」と書く。マルコはもちろんイエス・キリストの十字架の死と復活を知っている。この福音書でイエスとその働きを紹介するのである。イエスは神であり、福音は罪の赦しと関係のあることをこの箇所は暗示している。
  • この箇所で大勢の人がイエスのもとに来た。イエスが御言葉を語るのを聞いている。御言葉を聞くことを人々は喜んでいる。人間の魂は飢え渇いている。それは神の言葉しかいやすことができない。イエスはその神の言葉を語っている。人々はそれを聞きに来ている。
  • 他方、切実な願いをもってイエスのもとに来る人がいる。病気のいやしを求める人たちである。イエスはこの人たちの求めにも答える。この場面では、イエスは罪の赦しを語り、人は神との関わりに生きる者であることを伝えている。
  • 癒やされれば自分の必要は満たされたといってイエスのもとを去る人たちがいる。あえて神との関わりに生きようとはしない人たちがいる。イエスは御言葉を語り、神との関わりに生きるように招いている。罪の赦しを語り、イエスは神との関わりに生きることへの招きを具体的にしている。信仰とは神との交わりに生きることである。
  • 自分の必要を神に求め、必要が満たされれば神のもとを去る人たちもいる。それでもイエスは神との交わりに生きるように人々を招いている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>罪を赦す権威を持っている方である。イエスは神である。
  • <御子>人々を神との交わりに生きるように招く方である。
  • <御子>イエスは「御言葉」を語る方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>御言葉を聞くこと

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私は御言葉を聞いて生きていきたいと思いました。人はあなたとの関わりに生きるものであることを信じます。これまでも御言葉を聞いて生きてきましたし、これからもそうしたいと思います。そして私は御言葉を聞いて生きるように人々を導く働きを与えられました。今は牧師の働きからは引退しましたので、御言葉に生きることへの証しができればと考えています。
  • 今、説教奉仕の機会が与えられています。信仰によって老いを希望をもって生きることを伝えたいと願っています。フィリピの信徒への手紙から説教テキストを選ぶことほど決めています。フィリピ書全体を通読し、説教テキストの位置づけを考えたいと思いました。
    導いてください。
☆与えられた導き
  • フィリピ書を読み、説教テキストの位置づけを考える。