第二コリント 2章5~11節 愛に生きる教会
2021年6月7日
(内容)
- 教会の中で問題を起こした人がいた。その人には教会で罰が与えられたが、その悲しみに打ちひしがれないように、赦して力づけるように勧める。教会は愛し合う交わりである。
(黙想)
- 5節。教会の中に「悲しみ」があった。悲しみの原因となった人がいた。その人は、パウロを悲しませたのではなく、教会全体を悲しませたという。この人が何をしたのか分からない。「わたしを悲しませたのではなく」とパウロは言うが、パウロは悲しんだことは確かである。しかしその人を責めないために配慮した言い方をしている。
- この人は教会全体を悲しませたとパウロは言う。教会の中で誰かが大きな罪を犯せば、それは教会の悲しみになる。その時教会はどうするのか。一つの道はその人を排除することである。そして自分たちの清さを保とうとする。罪の出来事はなかったかのように考える。今ひとつは、共にその罪を負うというか、彼を赦し、受け入れる道である。教会の弱さを認めるといえるかも知れない。
- 6節。罪を犯した人に対する罰が与えられたという。それがどのようなものかは分からない。教会で彼は責められたのだろうか。罪を指摘されたのか。罪を犯した人はその事のゆえに、罰を受けた。つらい目に遭ったのである。パウロは、もうそれで十分だという。これ以上彼を責めたり、裁いたりしたら、次の問題が起きる可能性がある。
- 7節。その人が悲しみに打ちひしがれてしまう可能性がある。だから、赦して力づけるべきだとパウロは導く。教会は愛が生きて働く場である。教会は愛に生きることをパウロは語る。
- 8節。その人を愛するように勧める。牧会者パウロの心に触れる思いがする。教会は決して居心地の良い場所ではない。罪は憎むが人を愛する。
- 9節。「わたしが前に手紙を書いた」それは4節の涙ながらに書いた手紙と思われる。この涙ながらに書いたのには事情がある。コリント教会にパウロの使徒性を否定する者が来て、パウロを大いに批判、非難した。そのことを知ったパウロはコリント教会を訪問したが、それは失敗に終わりパウロは失意の中でエフェソに戻った。そこでパウロは涙ながらに手紙を書いたと思われる。それはこの手紙の10~13章と言われている。パウロは、コリント教会の人たちが手紙を読んで、パウロのことを理解することを期待した。パウロは「従順であるかどうかを試す」と書いた。パウロはキリストに従順であり、キリストの使徒として働いていた。コリント教会の人たちもパウロを理解し、キリストに従順となり、パウロに従順となることを願って、パウロが手紙を書いたということ。
- 10節。問題を起こした人を赦すなら(7節)パウロもその人を赦すし、パウロが赦すなら、それはキリストの前で赦すことであるという。
- 11節。教会の中で赦し合うことは、サタンにつけ込まれないためである。罪を犯した人が罪を責められ悲しみに打ちひしがれ、教会から離れるとしたら、キリストから離れ、サタンの手の中に陥る。またそのように罪を犯した者を排除し、自分たちの清さを保とうとするなら、それは愛のない教会であり、偽善的な教会となる。これもまたサタンの手に陥った教会の姿でもある。
- コリント教会の人たちを愛するパウロの気持ちが伝わってくる。新共同訳聖書では、この箇所で「赦す」という言葉が5回出てくる。赦しに生きることが大切である。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>責めるだけではなく、人を赦すこと。
- <勧め>赦し、力づけること
- <警告>サタンにつけ込まれないようにする
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、コリント教会のことを読みました。コリント教会は問題のない教会ではなく、色々な問題が起きている教会です。そこで、罪を犯す人には罰が与えられ、しかしその人が悲しみに打ちひしがれるのではなく、その人を赦し、力づける教会の姿があります。愛が生きいている教会と言えるでしょうか。教会が、愛が生きて働く教会になることの尊さを思います。
- 今日はわたしが関係している教会、関係した教会が、愛が生きて働く教会となるように、愛が生きて働く教会であり続けるように祈りたいと思いました。導きを感謝します。
☆与えれた導き
- 教会のために祈る