第一コリント 15章12~19節 死者の復活

2021年4月22日

(内容)

  • コリント教会には、死者の復活、イエスの復活を信じていない人たちがいた。これに対してイエスの復活がなければ自分たちは神の偽証人となるし、自分たちの信仰は空しいものとなり、自分たちはすべての人の中で、最もみじめな者であると書いている。

(黙想)

  • 12節。コリント教会に死者の復活はない、それゆえキリストが復活したとは信じられないと語る人がいた。これは現代人にも通じる。現代人も死者の復活はない、だからキリストの復活はないと考え、教会はおかしなことを主張していると考える。
  • そこでパウロは「死者の復活はない」という命題を掲げ、そしたらどうなるかを語っていく。論理的に語っていく。
  • 12節。キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、死者の復活はないと語る人がいることにパウロは驚く。
  • 13節。パウロはどのように反論するのか。そこで死者の復活がないと仮定したらどうなるかを考える。死者の復活がなければキリストは復活しなかったことになる。
  • 14節。するとどうなるのか。キリストが復活をしたという宣教は無駄であるという。つまり嘘、偽りを宣べ伝えているわけだから、それは無駄な行為という。そしてキリストの復活を信じることは嘘、偽りを信じることになるので、キリストの復活を信じる信仰も無駄であるという。
  • 15節。さらに死者の復活がなければ、キリストは復活していないのに、自分たちは神がキリストを復活させたと偽りを語り、神の偽証人になっていると語る。
  • パウロは論理的に語っている。死者の復活がなければ、キリストの復活はなく、キリストを宣べ伝える宣教の業は無駄であり、キリストを信じる信仰は無駄である。さらにキリストの復活を宣べ伝えることは神の偽証人になると語る。
  • 立場が違えば結論は異なる。死者の復活はあるのかないのか、どちらかである。どちらが真理であるかを客観的に判定することはできない。パウロそして教会は、死者の復活を信じ、キリストの復活を信じる立場に立つ。正確に言えば、キリストの復活を信じるので、死者の復活も信じるのである。
  • 16節。死者が復活しないなら、キリストも復活しなかったとの仮定にもう一度立ってみる。
  • 17節。死者の復活がなければ、あなたがたの信仰はむなしく、あなた方は今もなお「罪の中にある」ことになる。ここで新しく述べられることは、キリストの復活がなければ、あなたがたは罪の中にとどまっているということである。キリストの死により罪の赦しは受けることができるかも知れない。しかし、なお罪の中にとどまるという。するとキリスト者は、罪の中にあるゆえ、罪を犯す、しかしキリストの死により罪の赦しを受けることはできる。しかしまた罪を犯す。この循環から抜け出ることができないことになる。
  • 18節の「そうだとすると」はどういうことか。キリストの復活がないなら、キリストを信じて眠った人は滅んでしまったということか、罪の中にあるまま死んだことになるので、罪のゆえに滅んでしまったということになるのか。
  • これはどちらでもいいと思う。復活がないのだから、死んだひとはどうなるのか。救われているとは言えない。むしろ滅んだと言える。あるいは罪の中にあるままに死ねば、終末の日の審判で救いに入ることができないので滅びることになる。どちらにしろ、滅びが死者の復活はないと考えた場合の結論となる。
  • 19節。この世の生活に関してキリストに望みをかけているだけ、とはどういうことか。キリストに希望するのは、この世の生活に関することだけとの意味で、私たちが死んだら、キリストはもはや私たちにかかわることはないとの意味になる。
  • この世の生活に関してだけキリストに望みをかけるなら、死後について私たちはどんな希望も持たないことになる。キリスト者でない人は、別な信仰を持ち、何らかの形で永遠の命の希望を持つかも知れない。キリスト者は別の信仰を持たない。
  • 「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。なぜ、最も惨めな者なのか。キリストを信じ、永遠の命を与えられるという希望をキリスト者は持つ。しかし死者の復活がなく、キリストが復活しなかったのなら、永遠の命を与えられるという希望はむなしい希望、偽りの希望となってしまう。むなしい希望に生きるキリスト者はこの世の中で最もみじめな者とパウロは語る。なぜ最も惨めなのか。むなしい希望を信じ切っているからか。
  • パウロは死者の復活はないと仮定して論を進めた。そこで導き出される結果は、惨めな結果である。こんなことがあるはずがない、とパウロは主張し、キリストの復活を肯定する。でもこれはキリストの復活を信じないと惨めな結果になるから、私たちはキリストの復活を信じるという理屈ではない。
  • パウロはキリストの復活を信じている。そしてキリストの復活を宣べ伝えてきた。キリストは復活したと宣べ伝えられている。そして信仰は聞くことから始まる。だからキリストの復活を信じようとパウロは述べている。
  • ここで大切なこととして受けとめたいことは、私たちはもはや「罪の中」にはいないということである。キリストの復活がなければ、あなたがたは罪の中にあることになるとパウロは述べた。キリストの復活がなければ、私たちは罪の中にあり、罪の支配下にあり、罪の奴隷である。しかしキリストが復活されたので、私たちはもはや罪の支配下にはいない、罪の中から抜け出た、罪から自由にされたのである。
  • 私たちが罪から解放され、自由にされているのに、それは復活したキリストのおかげなのに、キリストの復活はないというのは、おかしなことだとパウロは語っている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)御子は死者の中から復活された方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)私たちはキリストの復活を信じる。
  • (教え)私たちはもはや罪の中にはいない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。パウロの論証の言葉を興味深く読むことができて感謝です。キリストの復活がなければ、私たちは今もなお罪の中にあるとの言葉が印象に残りました。というのは、今もなお罪の中にあると思っているキリスト者が多いのではないかと私は感じているからです。
  • 牧師を引退して、いくつかの教会で説教奉仕をしました。そこで祈られる祈りを聞いていると、罪の赦しを感謝しつつ、しかし自分たちは罪の中にいるという思いが伝わってきます。キリストにより罪から解放されたという喜びが伝わってきません。それは福音は罪の赦しであるという福音の狭い理解の説教がなされているからだと思います。説教者自身が罪から自由にされたとことを経験しない限り、なかなか語ることができないのかもしれません。しかし福音は私たちを罪から自由にし、罪の支配から解放することが書かれています。福音が余すところなく語られていないというもどかしさを感じます。
  • 福音が罪の赦しと罪からの解放であることが広く知られるようにと祈っていますが、神さま、どうぞ説教者たちを導いてください。キリストの復活ゆえに、私たちは罪の中にはいないことをブログを通して伝えたいと思いました。小さな発信ですが、神さまが用いてください。
☆与えられた導き
  • ブログに聖書の福音は罪の赦しと罪からの解放であることをコリント書の黙想を通して伝える。