コロサイ書 3章12節
2020年6月5日
(内容)
- あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
(黙想)
- 12節を読んで、信仰者はなぜ、神の戒めを守るのか、と思った。この12節では、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と神の戒めを守る理由が示されている。ここには、神と信仰者の関係が明確になっている。あなたがた、つまりコロサイ教会の人たちは、神に選ばれ、神に愛され、聖なる者とされている、という関係である。そういう神との関係に生きる者として、神の戒めに従うのである。
- そういえば十戒には前書きがあった。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷であったが、神によって奴隷状態から救い出してもらった。神に救い出された者に十戒が神から与えられた。
- 神はなぜ戒めを与えたのか。神の戒めを守るべきかどうか。
- 自分を救い出してくれた神が悪意ある戒めを与えるはずはない。でもその戒めは自分にとってどんな意味があるのか。意味があるなら従えばよい。意味がないなら従わなければよい。しかし意味があるかないかを判断するのは自分でよいのか。意味があるから神は与えたのではないか。その戒めにはどんな益があるのか。もしその神の戒めを快く思わないなら、快く思わない自分とは一体何者なのか。
- 僕は、イエス・キリストを信じ、救いを与えられた。僕は神に選ばれ、聖なる者とされ、神に愛されている。その神が与えられた戒め、教えである。神の戒めはよきものであると受けとめる。今日の聖書の戒めは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」。特に異存はない。このような戒めを与えられるのは、ある意味光栄である。無理なこと、無茶なことを神は要求なさらない。むしろ信仰者としてのわたしの成長を促す戒めである。私をイエス・キリストに似た者とする戒めである。言うまでもなく聖霊の導きによって戒めに従うことができる。
- 「無理です」と言い訳する心のないことを感謝する。「いやです」と反抗する心のないことを感謝する。むしろよい戒めを与えられたことを感謝する。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>私を選び、聖なる者とし、愛してくださる方。
- <御父>私がキリストに似た者となるように、具体的な戒めを与える方。
☆神が求める私たちの生き方
- <勧め>憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を読むことができ感謝します。あなたの戒めを読み、素直に受け入れることができることを感謝します。イエス様に似た者となるように勧める戒めを感謝します。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容など自分にどれほど備わっているかと思います。身につけなさいとの励ましを受けたことを感謝します。
- 今日の戒めは、いずれも他者と関わる時に持つべき態度、他者と接する時の態度が求められています。決して簡単ではないと思いますが、むずかしくはありません。あなたから愛を受けたことを覚え、私も広い心で他者を愛したいと思います。
- 現在の私が主に関わる他者は、娘家族です。彼らと接する時に問題を感じることもはなく、孫たちにも寛容な心、慈しみの心で接することができていると思います。これからもよい「おじいちゃん」として接することができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な心で孫たちと接することができるように祈っていく。