コロサイ書1章1~2節 神は心を持つ方

コロサイ書1章1~2節 神は心を持つ方

2020年5月2日

(内容)

  • 神の御心によって使徒とされたパウロからコロサイにいる聖なる者たちへ、と手紙の挨拶文となっている。

(黙想)

  • パウロは「神の御心」によってキリスト・イエスの使徒とされた。神の御心によって。神は心を持つお方である。そして神はパウロを使徒に選ぶことをよしとされ、彼を使徒とした。神は心を持つお方である。神は私が信仰を持つことをよしとされ、私を信仰者へと導いてくださった。そればかりでなく、福音を知りたいと願う私を福音宣教者へと導いてくださった。私が今日あるのは、神の御心によると信じる。
  • 神さまは心を持っている。その心に私はどう向き合ってきたのか。ディボーションを通して、神の御心を受けとめ、それに従う歩みをしてきた。それがどうして神の御心だと分かるのか、という問いはある。神の御心が簡単に分かるわけがない、と人は言うかも知れない。しかしイエスは、人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きると言われた。日々聖書を読むとき、それは神の口から出る一つ一つの言葉であると信じ、神の御心を求め、神の御心を受けとめて神の導きに従ってきた。ディボーションを通して示された事柄を僕は神の導きと信じ受けとめてきた。
  • 神は心を持っている。そして人間を関わってくださるお方である。そしてこの方は天地万物の創造主である。そして神はその御心を聖書の中で明らかにされている。僕は、神さまが心を持っておられることをもっと真剣に受けとめなければならない。たぶん。
  • 僕は、神の御心によって御国を受け継ぐ者とされている。イエス・キリストを信じているから。受け継ぐ者とされていることは聖書に書かれているので信じる。しかしトマスのように、御国を手で触るなり、目で見るなり、確かなものとして確かめたいとの思いがある。万が一神の国は妄想であったら、聖書は真理らしきことを語っているが、そして真理と受けとめて生きてきたが、聖書は真理を求める者を食い物にする悪しきものがつくりだしたものなら、という根本的な疑念みたいなものが僕の心の片隅にある。
  • あ、昨日読んだルターの言葉を思い出した。悪魔が持ってくるものに警戒しなければならない。悪魔が持ってくるものを見つめてはならない。神の光の中で、見なければならない。この疑念を見つめるのではなく、神が心を持つお方、そして天地の創造主であり、御国を約束してくださる方であることに心を向けなければならない。
  • 僕は同じところをぐるぐる回っている。悪魔が持ってくる疑念との戦いであり、信仰によって勝たなければならない。以前作った歌を思い出す。
  • 「疑いは信じる心の影にして前見て進めば見えることなし」。
  • コロサイ教会の人たちのことをパウロは、聖なる者、キリストに結ばれている忠実な兄弟と呼んでいる。僕もそんな風に呼ばれてみたい。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か。
  • <御父>神はパウロをキリストの使徒として選ばれた方
  • <御父>神は、信じる者を聖なる者とする方。「聖なる者」はクリスチャンのアイデンティティー。
  • <御父>神は心を持っている方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>忠実であること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書から、あなたは心を持つ方であることを確認しました。このことは勿論承知していました。でも心を持つ方としてあなたと真剣に向き合ってきたのかと思わされました。あなたは心を持つ存在として、私に語りかけられます。あなたは天地万物の創造主です。あなたが語られるAという事柄は信じることができますがBという事柄は信じられないということであれば、それはあなたを信頼していない、信じていないということになります。
  • 天の父よ、自分が信じられるから信じるのか、あなたを信頼するから信じるのか、この二つの間を私は行ったり来たりしています。私の心の中に固いものがあって、自分が信じられるものを信じるという心があるのです。いくらあなたが語っているとしても、拒んでしまう固い心があることを思います。天の父なる神さま、私を憐れんでください。幼子のように素直に信じる心を与えてください。
  • あなたがこの固い心を打ち砕いてください。そして信じることを心から喜ぶ者として下さい。イエス様はトマスに「見ないのに信じる者は幸いである」と教えられました。私の頑なな心を打ち砕き、素直に信じる心、聖霊に導かれて信じる心を与えてください。
☆与えられた導き
  • 素直に信じる心を求めて祈る。