ヨハネ福音書 21章1~14節
2020年4月25日
(内容)
- イエスはティベリアス湖畔で弟子たちに姿を現した。夜通し漁をしても何も獲れなかった弟子たちに対して、船の右側に網を降ろしなさいと指示する。イエス様の命令に従って弟子たちが網を降ろすとたくさんの魚が捕れた。そして弟子たちはそれがイエスであることが分かった。
(黙想)
- イエスが弟子たちに現れたとき、それがイエスだと分からなかったとある。マグダラのマリアも墓で最初にイエスに会ったとき、イエスだと分からなかった。ルカ福音書によれば、エマオ途上の二人の弟子たちも、共に歩き、聖書について話をしてくれている人がイエスだと分からなかった。そしてこの箇所でも、イエスが岸辺に立っていたとき、弟子たちはそれがイエスだと分からなかった。しかし網を降ろしなさいとの指示に従ったとき、網を引き上げられないほどの魚がかかった。その時、網を降ろしなさいと指示した人がイエスだと分かったとある。
- 弟子たちは復活したイエスを見分けることができなかった。そして弟子たちは目が開かれて復活したイエスを見分けることができた。このことは何を意味しているのだろうか。弟子たちは十字架にかかる前の地上のイエスと共に活動をした。イエスと共に生活もした。彼らは地上を歩いたイエスはよく知っていた。弟子たちがイエスを見分けることができなかったことは、復活したイエスが、弟子たちとって何を意味しているのか、まだ分からないことを意味しているのではないか。弟子たちが共に生きるイエスは、今や地上を歩んだイエスではなく、復活したイエスになった。復活したイエスがいかなる方か、弟子たちはこれから知ることになる。
- イエスというお方は、私たちに新しいお姿を現す方なのではないか。僕はイエスを知り洗礼を受けて信仰生活を始めた。牧師の働きへと導かれた。聖書からイエスが誰なのか、イエスを教えを学んだ。イエスが救い主であることを学んだ。しかしある時から、洗礼を受けた自分はイエス・キリストに結び合わされ、新しいアイデンティティーに生きることを知らされた。キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きることを知った。イエス理解が一段深まった。そして今、さらにイエス理解を深めるようにと導かれているような気がする。イエスを知っているつもりになるとイエスが現れてもイエスだとわからないのである。それで弟子たちだけのことではなく、私たちのことでもあるのではないか。イエスは私にどのような新しい姿を現されているのだろうか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>御子は復活されたお方として弟子たちに現れた。
- <御子>御子イエスが弟子たちに舟の右側に網を降ろしなさい、そうすればとれるはずだ」と指示した。弟子たちが従って網を降ろすとたくさんの魚が捕れた。イエスの言葉は実現する言葉である。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>イエスというお方は、私たちにとって未知のお方として姿を現す。イエスのことは知っている、分かっているとの思い込みは捨て、聖書から常にイエスというお方を知る努力をすることは大切である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、弟子たちはイエスに付き従っていた女性たちは復活したイエス様が現れても、それがイエス様だと気づきませんでした。しかしきっかけを与えられ、復活されたイエスであると気づきます。このことが何を意味しているのかと考えました。
- 私たちもイエス様のことを知っているつもりになっていると、イエス様が分からなくなるのではないかと思いました。私たちはイエス様のことがわかりきることはなく、信仰の歩みと共にイエス様のことがさらに深く分かっていくのではないかと思わされます。
- イエス様は終わりの時、この世界に再臨されると聖書に書かれています。でも再臨される方という意識は、私のうちには弱いです。今、あなたの右に座しておられるとの意識も弱いです。使徒信条では、「全能の父なる神の右に坐したまへり」ということの意識は弱いです。そして「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」とあり、裁かれる主イエスという意識も弱いです。天に上げられ、今父なる神の右に座しておられ、やがて再臨され、人々を裁く主イエス。このような主イエスに向き合うことを必要を思わされました。二つの信仰問答(ハイデルベルク、ウェストミンスター)でイエスの昇天から、終末のことを語る部分を読んでみる。
☆与えられた導き
- 二つの信仰問答に目を通す。