マルコ福音書14章32~42節 イエスの祈り
2020年4月10日
(内容)
- イエスはゲッセマネの園で祈られた。「私は死ぬばかりに悲しい」と言われ、弟子たちに目を覚ましていなさいと言われた。しかし弟子たちは寝入ってしまった。そしてイエスは恐れもだえて父なる神に祈られた。
(黙想)
- イエスは「私は死ぬばかりに悲しい」と言われた。悲しみのあまり死んでしまいそうだという意味だろう。極度の悲しみの中にあると言われた。イエスはどんな悲しみの中にあるのだろうか。そして「この苦しみの時が過ぎ去るように」と祈られた。過ぎ去るとはどういうことか。十字架の死の時が過ぎ去ることか。十字架の上でイエスの苦しみ、悲しみは極点に達するというのか。そし死ねば、その苦しみは終わるのか。その後どうなるのか。
- イエスは祈られた。「この杯をわたしから取りのけて下さい」。杯とは何のことか。神の怒りが盛られた杯であり、この杯から飲むとは神の怒りを受けることを意味する。
エレミヤ49:10
主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない」。
- イエスはご自分がこの杯から飲むことは知っていた。
マタイ20:22
イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
- 十字架の上で死ぬ直前、イエスは叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエスは十字架の上で神に見捨てられる経験を味わった。神に見捨てられるということがどういうことであるのか、私たちはよく知らない。死の恐怖を我々は感じるが、それは神に見捨てられることを指しているのではないか、と思っている。
- 苦しみの中で、神の顧みが得られず、神に見捨てられたと思うときがあり、そのような思いを詩編に見ることができる。またイスラエルの国は、神に見捨てられて滅んでいる。神に見捨てられることが地上の出来事であれば、見捨てられても顧みを受けることが期待できる。イスラエルの国は、20世紀になって国家を建設している。
- しかし罪に対する神の怒りを受けるということは、滅びに至るということである。滅びは神に見捨てられるということ。この時は、顧みを受けることは期待できない。だから滅びなのである。
- イエスは十字架の上で神の見捨てられることを、滅びを経験した。イエス自身は罪を犯したことはなく、神に見捨てられる理由はない。神に見捨てられるとはイエスは思っていなかったのではないか。
- イエスは、ご自分の死を予想していた。すでに神の怒りの杯を飲むことは知っていた。イザヤ書53:5にあるようにご自分の死を理解し、その死を死ぬことを覚悟していたと思われる。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)
- しかしイエスも、神によって刺し貫かれる、打ち砕かれることがどういうことなのかまではご存じなかった。ご自分の死の意味は分かっていた。人々に代わって、神の懲らしめを受ける死である。神の怒りを受ける死である。人々の罪を負う死である。でも、実際にその死を死んでみなければ、神の懲らしめを受けることがどういうことであるかは分からない。それは神に見捨てられることだった。そしてイエスは、それを予感していたのではないか。だから、その死を目前にして、ひどく恐れてもだえたのではないか。
- イエスはご自分が復活することはご存じだった。だからといって、神の怒りを受ける死を平気でやり過ごすことができるわけではない。神の怒りを身に受けることの恐ろしさは予感していたし、恐れもだえられた。そして十字架の上で、神の見捨てられることがどういうことかを経験された。人間の罪に対する神の裁きを引き受けられた。
- 「この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた。イエスは自分の思いを祈られた。しかし神の御心を従うことも表明された。そして十字架の死に至るまで従順に歩まれた。
- この場面でイエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネに言われた.「ここを離れず目を覚ましていなさい」。そしてイエスは少し進んで祈られた。3人の弟子たちはイエスが祈っている姿を見ることができる。イエスが恐れもだえて祈っているのを見ることができる。神の怒りを受けることへの恐れとの戦いをしている。神の怒りを受けることは怖い。それと間もなく直面する。しかしそれを神の御心として受けとめようとする。祈りの葛藤がある。祈りによってしか、この事態を受けとめることはできないのだ。
- イエスがもだえて祈っている姿を弟子たちは見るべきだった。神から裁きが来る。同時にその神に助けを求める。そういう祈りをイエスはしている。しかも裁きを身に受ける理由がないのに。私たちには予想も想像もできない祈りをしている。イエスがどんな祈りをしているのか、弟子たちは見て、知るべきだった。でも眠ってしまった。
- 我々は死を前にして死に対してどのように向き合うことができるのだろうか。昨日読んでいた本に、自分が牧会している教会の信徒が死を前にして使徒信条、主の祈りを唱えているのを見たと書いてあった。その信徒は信仰に立とうとしている。死に直面することは不安なことなのだ。しかしその不安な時を使徒信条、主の祈りを唱えることによって過ごしている。イエスは「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られた。人は不安の中で死と向き合うとき、それぞれの仕方で祈ればいいことを知る。
- イエスが、これほどまでの経験をして私たちを救って下さった。救いの恵みがいかに大きいかを我々は聖書から学ぶべきだろう。決して救いの恵みを小さくしてはいけないことを思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>33節。イエスは恐れもだえて祈られた。祈りの戦いをされる方。
- <御子>34節。自分の願うことではなく、御心が行われることを願う方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>目を覚ましていること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様は恐れもだえてあなたに祈られました。神の怒りを身に受ける死を死ぬということがどのようなことなのか、イエス様もすべてご存じではなかったと思います。それが恐るべきものであることは分かります。イエス様は、恐れと戦ったことを思います。イエス様はご自分が復活することはご存じでした。知っているからといって、神の怒りを身に受ける死を平然と死ぬことができるわけではないと思います。だから、その死を死ぬ苦しみの時が通り過ぎるようにと祈られました。
- 私たちもいつの日か、自分の死に直面します。今新型コロナウィルスによる感染が広まる中、高齢者は重症化するとの情報があり、年配者には脅威です。自分が死に直面するような場面を想像したりします。
- 私たちも自分が復活することを聖書から教えられ信じていますが、だからといって平然と死を迎えることができるわけではありません。イエス様は祈りの戦いをされました。祈りこそ、クリスチャンの武器であることを思います。知識で不安を蹴散らすことはできないと思います。今日は、自分が死の床にあることを想定し、どのような祈りをするのか、実際に祈ってみたいと思います。
- 今新型コロナウィルスによる感染が世界の脅威となっています。目に見えないウィルスによる大災難が起きています。このような時、目を覚まして生きるとはどういうことなのでしょうか。この脅威は、神からの私たちに対する問いかけでもあるように思います。あなたは私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか。私たちは何に気づくべきなのでしょうか。
☆与えられた導き
- 自分が死の床にあると想定し祈る。
- 新型ウィルによる感染を通して神の問いかけを聞く