ヨハネ福音書19章23~27節
2020年4月2日
(内容)
- 十字架につけられたイエスのそばで兵士たちがイエスの着ていたものを分け合っている。イエスは愛する弟子に母をゆだねる。
(黙想)
- 十字架の上からイエスは兵士たちが自分の服を分け合っている姿を見て何を思ったのだろうか。そして心配そうに自分を見ている母と愛する弟子と婦人たちを見た。イエスは、母を愛する弟子にゆだねる。
- 兵士たちがイエスの服を分け合うことについて、聖書の言葉が実現するためとある。言い換えれば聖書の言葉が実現したというのである。これは詩編22の言葉。マタイ、マルコ福音書では、イエスは死の間際、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫んでいるが、これも詩編22からの言葉。これはイエスの死の意味を教える言葉である。しかし服を分け合ったことはイエスの死の意味に直接関係しているとは思えない。
- 聖書の言葉が実現するため、という言葉は、イエスの十字架の死が偶然の死、予想できなかった死であったという理解を退ける。イエスの死はむしろ予想された死、来るべきものが来たという理解へ導く。19章には、聖書の言葉が実現、と繰り返されていて、イエスの死は起こるものと定められていたという理解が示されている。
- あらかじめ予想、予期されていたとはどういうことか。イエスをメシアと信じる立場からすれば、メシアの登場が預言され、それが実現したという意味になる。あるいはメシアを後にこの世に送るという神の計画があり、それが実現したということになる。
- するとこの聖書の箇所は私たちに、神は計画を持つ神であり、それを予告し、そして実現させる神であることを教えている。歴史の中で働かれる神である。さらに言うと、神は私たちにも計画を予告し、いつの日かそれを実現させる神である。どんな計画を神は持っていられるのか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)神は計画を持つお方。歴史の中で計画を告知し、それを実現させる方。
- (御子)自分の亡き後、母の愛する弟子にゆだねている。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)神は私たちにも計画を知らせ、それを実現する方。新約聖書は終末の事柄を語る。終末が到来したとき、私たちはそれを確認することができる。私たちは復活し、最後の審判が行われ、神の国に迎えられ、神の計画の実現を喜ぶことができる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、「聖書の言葉が実現」が印象に残りました。旧約聖書にはメシアを待望する言葉があります。イエスの弟子たちはイエス我十字架で死んだことに対して、そこにどんな意味があるのかを知るために旧約聖書を読み、イエス様の死の意味を聖書の中に発見したと思います。イザヤ書53章には、十字架の場面をまざまざと思い起こさせるようなことが書いてあります。
- 私たちにとって聖書の言葉の実現を考えるとき、日々の生活の中でのあなたの約束の実現、そして終末の出来事として聖書が語ることの実現があります。私は地上の生活において、あなたの約束を頼みとし、あなたの約束の実現を見て、あなたに支えられてきたことを思います。老いの時期に生きる者としては、死後の希望について考えざるを得ません。聖書が伝える終末の事柄、これが本当に実現するのかどうかは分かりません。人間として将来に何が起きるのか知ることはできません。しかし聖書は「希望」として、終末の事柄を語っていることを教えられます。素直に信じて歩めることを願います。
- 天の父よ、私の心の中には、信じる心と本当だろうかと不安になる心があります。それゆえ、信じる心を強めてくださいと祈らざるを得ません。そして思います。私が信じようと疑おうと、神さまの計画に変更はありません。神さまの計画が存在するなら、私の思いと関係なく実現します。自分の思いに囚われることからお救いください。私はあなたを信じる者です。
☆与えられた導き
- 自分の思いに囚われることからの救いを求めて祈る。