ヨハネ福音書10章22~30節
2019年11月22日
(内容)
- ユダヤ人たち(ファリサイ派の人々)は、イエスに「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と告げる。するとイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と答えられた。
(黙想)
- イエスは、自分が行っている業がメシアであるしるしだと告げる。ユダヤ人たちは、そのしるしを認めようとしない。なぜならイエスは、安息日に盲人の目を開く業を行ったのであり、安息日の戒めを破っていると考えたから。
- イエスがメシアであることをだれもが納得するような絶対的な証拠、根拠というものはない。人はしるしを見せられて信じるか否かが問われる。私たちは信仰者であり、信じることを選ぶ者である。
- 時に私たちは神さまが必ず助けてくださるとか、必ず病気を癒やしてくださるとか、確かな証拠を求めたくなる。しかし、神さまが絶対こうしてくれるという絶対的な確信を持つことは私たちにはできない。もしそうなら信仰は必要ない。
- 信仰生活をする上で、確信が欲しいことはいつでもある。私たちに求められるのは、絶対的な確信を持つことではなく、信じることである。信じるということは、疑い、不安が伴うということである。疑い、不安があるけど信じることを選ぶのか、疑い、不安があるので信じない立場を取るのか。この二つの間を私たちは揺れ動く。
- 信仰とは何かを教えられた気がする。終末の事柄については、それが真実であるとの絶対的な確信を持ちたいとの思いが僕にはあった。今もあるかも知れない。しかし疑い、不安があるけど信じることを選ぶ立場を僕は取りたいと思う。
- イエスは、信じない者たちは、私の羊ではないからと言われた。イエスは6章43節で「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と語られた。これと同じことをイエスは今言われている。
- わたしの羊は私の声を聞き分けるとある。イエスの声を私たちはどこで聞くのか。聞き分けているか、否かは、どこで分かるのか。聞き分ける者は、イエスに従う。従うことが聞き分けていることを示している。その人に永遠の命を与えるとイエスは言う。
- イエスを真に信じているかどうかの試金石がある。イエスの声を聞き分け、その声に従うことである。
- そもそも人はどこでイエスの声を聞くのだろうか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエスは、父なる神から遣わされたメシア、救い主である。イエスが行う業は、イエスが父なる神から遣わされたことのしるしである。
☆神さまが私たちに求める生き方
- (教え)信仰とは、選ぶこと、決断である。
- イエスが行った奇跡はイエスが神から遣わされたメシアであることを示すしるしである。そのしるしを認めてイエスをメシアを信じるか、イエスを信じないかは、人が選ぶことである。しるしはあくまでもしるしであり、イエスがメシアであることを示す絶対的な証拠ではない。
- 信じるということは、あくまでも信じることを選ぶことであり、信じることが絶対に本当であるとの根拠は求めることができない。そもそも神を信じるという時、神が絶対にいるという証拠はない。
- (教え)イエスを信じることについての試金石がある。イエスの声を聞き分けているかどうか。聞き分けているかどうかは、その声に従っているかどうかでわかる。
- (勧め)自分はイエスの羊であると信じ、イエスの声を聞き分け、それに従うこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日は信じるということがどういうことかを教えられました。それは、選ぶこと、決断することです。疑いや不安があるけど信じるのか、疑いや不安があるから信じないのか、どちらの立場を取るか、それが問われます。信じるというのは、信じる立場を取ることと理解します。
- そして信じても絶対に大丈夫だという確信を私たちは持つことができないことも教えられます。
- 私はイエスを信じない者の滅びの説教をしてきませんでした。救いを語るのだから滅びを語るのは当たり前ですね。しかし滅びを信じる人はほとんどいません。滅びを語ることは脅迫になるから控えようとか、自分が確信を持っていないことを語っていいのか、などのためらいがありました。イエス様を信じない者は滅びる、そのこともきちんと語っていかないといけないと思いました。
- 「信じるとはどういうことか」はブログに書いてみたいと思います。滅びを語ることについては、もう少し考え、自分が滅びから救われていることを思いめぐらしたいと思います。
- 不信仰の者の滅びを語る聖書箇所をピックアップして滅びについても黙想したいと思います。
☆与えられた導き
- 信じるとはどういうことかをブログに書く。
- 「滅び」を語る聖書箇所をピックアップする