ヨハネ福音書 9章13~17節

2019年11月2日

(内容)

  • イエスが盲人の目を見えるようにした出来事をどう見るか、ファリサイ派の人々の中でも評価が分かれている。安息日に行ったのだから、イエスが神のもとから来た人ではないとする人、罪ある人間がこのようなことを行えるはずがないとする人、目を開けてもらった盲人は、イエスを預言者だと語った。

(黙想)

  • 人は判断に迷うときがある。自分が今まで抱いてきた価値観・考え方に従って判断するのか、その価値観にとらわれず正直に向き合い判断するのか。人の意見に左右されて判断するのか。
  • ファリサイ派の人々の中には、安息日に行ったのだから、安息日の戒めに違反しており、イエスが神から遣わされたはずがないと判断した。しかしファリサイ派の人々の中には「罪のある人間がこんなしるしを行うことができるだろうか」と言って、異なる判断をした。イエスを神から遣わされた人かも知れないと考えた。
  • キリスト教において、教派があり、教理の理解において違いがある。また神学的立場による理解の違いがある。ある事柄に対して自分はどう考えるか、問われることがある。その時、従来の立場にとらわれるのか、とらわれずに判断するのか、迷うことがある。そんな時、神さまに対して心を開き、自分の気持ちに正直に判断するのがよいと思う。
  • 盲人は、自分の身に起きたことの故、正直にイエスのことを「預言者です」と告白した。

(聖書に聞く)

☆神が求める私たちの生き方
  • (教え)自分はどう信じるのか、正直に向き合うことは大切ではないか。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、あらためて信仰の事柄にどう向き合うのか教えられ感謝です。ファリサイ派の人々の中にも罪のある人間がこのようなことを行えるだろうかと言って、イエス様を律法違反と判断しないで、正直に出来事に向き合う人のいたことを教えられます。
  • イエス様は聖霊による洗礼を授ける人であると4つの福音書が語っています。この聖霊による洗礼は何か、それが私の問いです。ペンテコステ派の人たちは、聖霊による洗礼は異言を伴うと語ります。私が属する神学的立場では、水の洗礼の時に聖霊による洗礼は受けたと理解します。聖霊は私たちのうちに住んでくださると理解し、それ以上のことには言及しません。
  • パウロはコリント書で聖霊の賜物の一部として異言の賜物を掲げていますが、この賜物をすべての人が持つとは語っていません。
  • 果たしてどう理解したらいいのか、と考えます。イエス様は信じるすべての人に聖霊による洗礼を授けるのか、一部の人なのか。そもそも聖霊による洗礼とは何か。イエス様は使徒言行録の1章8節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語られました。そしてペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊が下りました。弟子たちは聖霊による洗礼を受けたと理解します。聖霊による洗礼は、力を与え、受けた人をキリストの証人にすることが分かります。イエス様を信じる人は基本的にみな、イエス様の証人となるべき人です。
  • この事柄はずっと考えていますが、いまだ分かりません。信仰者として生きるからには、このことをはっきりさせたいとの願いを持っています。天の父なる神、教えてください。

☆与えられた導き
  • 神の答えを待ち祈り続ける。