ヨハネ福音書7章37~39節(2)
2019年9月26日
(内容)
- イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われた。さらに「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られた。生きた水とは、霊のことである。
(黙想)
- 「聖書に書いてあるとおり」とある。預言者エレミヤは次のように神の言葉を語る。
- 「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを」(エレミヤ2:13)。生ける水の源は神、とエレミヤは語る。
- 預言者エゼキエルは47章で神殿から水が川となって流れ出ることを語る。川の両岸では果樹が大きく育ち豊かに実ること、川の中には沢山の魚が満ち、漁師は豊かな収穫を得ることが書かれている。
- イザヤ書35章には、荒野に水が湧き、砂漠は花を咲かせることが語られる。神の民、イスラエルの回復のたとえとして語られている。
- イエスを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。川は大地を潤し、豊かな実りをもたらす。砂漠のように干からびた心は、潤される。渇いている人は、豊かに潤され、実を結ぶようになる。そしてその生きた水とは聖霊であると言われる。
- この聖霊については、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:25)。父なる神が弟子たちに聖霊をお遣わしになるとイエスは語られた。あるいは「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハネ15:26)。ここではイエスが真理の霊、つまり聖霊を遣わすとある。
- この聖霊を受けるとき、あるいは聖霊に導かれるとき、私たちの渇きは癒やされるし、実を豊かに結ぶようになることを教えられる。
- この37節のイエスの言葉は、僕の心をとらえた言葉だった。言い換えると、僕の心は渇いていたのだ。心が満たされることを求めていた。詩人は「神に、命の神に、わたしの魂は渇く」(詩編42:3)と語る。神との交わりに生きるとき、心は渇きから癒やされる。神との交わり、それは聖書の言葉を通して与えられる。イエスは言が肉となられた方であり、イエスとの交わりも結局、神の言葉を通しての交わりとなる。
- 信仰とは、この交わりに生きることではないか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私はあなたを信じ、渇きが癒やされました。聖書の言葉をあなたの言葉を信じ、これに親しみ、これによって生きるようになったとき、心が満たされるようになりました。本当に感謝です。み言葉を通してのあなたとの交わりが信仰者を生かすことをあらためて思います。このことを知らない信仰者も少なくないことを思います。
- 教会で信仰者の生き方が説かれますが、しばしばそれは「教え」であり、外から人を教えに従わせようとします。神さまとの交わりから生まれるものではありません。あなたとの交わりから教えられるとき、それは内からの従順として、教えに従うこととなります。喜んであなたに従うことが見られず、従うべきと教えられて従えない自分を罪深い者と感じ、罪の意識に悩む人を知っています。
- 聖霊に導かれるとき、聖書の言葉が真理であるとわかり、御言葉により、救いが心の中に入ってきます。聖霊の導きを祈り求めて聖書を読むことの大切さをあらためて知ります。信仰者といえども、自分が渇いていることを知らないのかもしれません。渇きをテーマとして説教してみたいと思います。10月の説教のテーマとして、渇きを取り上げることとします。
☆与えられた導き
- 渇きを主題として説教をする。