ヨハネ福音書 7章1~9節
2019年9月3日
(内容)
- イエスはユダヤ人たちが自分のことを殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとはしなかった。仮庵の祭りが近づいたとき、イエスの兄弟たちが「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない」と言って、イエスにエルサレムに行くことを勧めた。しかし「私の時が来てない」とイエスは言い、兄弟たちの勧めに聞かなかった。
(黙想)
- イエスの兄弟たちはイエスに「ユダヤに行き、あなたのしている業(奇跡)を見せ、自分を世にはっきり示しなさい」と勧めたが、イエスはこれに従わなかった。
- イエスの兄弟たちはイエスを信じていなかった。年齢的にはイエスが一番上である。血のつながりがあるからといって、イエスを信じていたわけではない。兄弟であれば、イエスを小さい頃から知っていたから、イエスが神から遣わされたことを信じることは容易なことではなかったと思われる。人間的なものが信仰を妨げている。
- 兄弟たちはよかれと思って、イエスにエルサレム行きを勧めた。余計なお世話である。
- 「わたしの時はまだ来ていない」と二回も言って、イエスはエルサレムに行くのを断っている。イエスの時、それは十字架につけられるときである。イエスは「わたしの時」を相当意識している。十字架の死を見据えて生きていると言える。
- イエスは世の行っている業は悪いと証しをしているので、世から憎まれると語る。「世の行っている業が悪い」とは、ユダヤ人たちに対する批判と思われる。5章の最後で、ユダヤ人たちが、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだと語り、ユダヤ人たちの信仰を批判している。7章の20節では、ユダヤ人たちは、モーセが与えた律法を守らないと批判している。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)ご自分の時(十字架につけられる時)を意識している方。
- (御子)イエスは、ユダヤ人たちの信仰について遠慮なく批判する方。そのためにユダヤ人たちから憎まれている。
- (御子)兄弟たちの忠告に安易に従うことはなさらない方。
☆神が求める私たちの生き方
- (警告)人間的な思いを信仰に持ち込むと信ずべきことが信じられなくなる。イエスの兄弟たちは、イエスを小さい頃から知っていたゆえに、イエスのことを信じることができないでいたと思われる。
- (警告)イエスの兄弟たちのイエスへの忠告はもっともそうな忠告であった。でもイエスは拒んだ。もっともそうな忠告が心の中に湧いてくることがあるが、神の御心に一致しているのかどうかの吟味も時に必要となる。
- (模範)イエスは「わたしの時」を意識している。自分の最後の時を見据えて生きている。
- (教え)世の悪しき業を批判することは正しい。そのために憎まれることはある。この箇所での「世の悪しき業」とは、神を信じてはいるがイエスを信じないユダヤ人たちのイエス批判である。私たちも、神を信じるがイエスを信じないユダヤ人の立場に陥らないとは限らない。信仰者としての自分が真に福音に立って生きているかどうかの自己批判は必要である。イエスから偽善者よと批判されないとは限らない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、忠告について考えさせられました。イエス様の兄弟たちは、よかれと思ってイエス様に忠告を与えましたが、イエス様は受け入れませんでした。人は良かれと思って忠告をしたり、勧めをしますが、その時、しばしば自分を上の立場に置き、相手を教えようとすることがあります。忠告が相手に喜ばれることは少ないのではないでしょうか。
- 私の身近に若い牧師たちがいます。自分の経験から話をしたいとの思いがないわけではありませんが、求められていないのに話をする必要はないと思っています。人は求める気持ちがないとき、忠告を言われても、受け入れないのではないかと思います。もどかしい思いを抱きますが、若い牧師たちの歩みを神さまが導かれることを祈ります。
- イエスは、「私の時」を見据えて生きておられます。十字架の時です。最後の時です。私は老いました。自分が突然が亡くなった時のことを考えます。エンディングノートが話題になり、必要なことを書き残すことの必要性は知っています。そしてエンディングノートを買ってあります。心の中では、必要な情報は書いておくべきだとの思いが時々湧いてきます。インターネット利用に関わる情報は、書き残しておかないと残された人は戸惑います。今日は、必要な情報を、書き残すことを実行したいと思います。
☆与えられた導き
- エンディングノートに必要情報を書く。