ヨハネ福音書 6章1~15節
2019年8月6日
(内容)
- イエスは山に登った。群衆が大勢イエスの方に来た。それを見たイエスは、五つのパンと二匹の魚を分け与え、男だけで五千人の群衆を満腹させ、残ったパンくずを集めると12の籠が一杯になった。
(黙想)
- この物語はどの福音書にもある。比較するとヨハネの特徴がわかる。まずイエスは、フィリポを試そうとしたとある。イエスはフィリポに言う。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。イエスはフィリポにどんな答えを求めていたのだろうか。
- フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。マルコ福音書では弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」とイエスに答えている。一デナリオンは労働者の一日分の賃金と言われている。二百デナリオンは、二百日分の賃金に相当する。そのような大金を弟子たちは持っていない。仮に持っていたとして、それでパンを買ってきたとしても、足りないでしょうとフィリポはイエスに言ったことになる。
- 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とのイエスの問いにフィリポは、それは無理です、と答えたことになる。
- ペトロの兄弟アンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とをもっている少年がいます。けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と語る。フィリポもアンデレも群衆に食べ与えることは無理だとイエスに語ったことになる。しかしイエスは、ご自分が何をしようとしているのか知っておられたとあり、イエスは群衆に食べ物を与えようとしていたのである。それは常識的には不可能なことである。
- しかしイエスは五つのパンと二匹の魚で群衆を満腹させた。これは奇跡であるが、しるしでもある。イエスが神から遣わされたメシア、救い主、神の子であることを示すしるしである。弟子たちはこれまでイエスの行った奇跡を目撃してきた。しかしこの大勢の群衆に食べさせることは無理だと考えた。イエスには「できる」。この信仰をイエスはフィリポに求めたのではないか。
- 人々はイエスの行ったしるしを見て、「世に来られる預言者である」と言った。イエスが普通の人間ではないことに気づいている。申命記18章15節でモーセが「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と語ったことを念頭に置いての言葉と思われる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)14節。イエスは五つのパンと二匹の魚で大群衆を満腹させることができる方。このような奇跡を行ったことは、イエスが神から遣わされた神の子であることを示すしるしである。
- (御子)6節。イエスはフィリポを試みた。イエスは信仰を期待する方。
- イエスといつも一緒にいて、イエスの行う奇跡を見てきた弟子のフィリポ、彼はイエスをどう見ていたのか。神から遣わされた神の子と信じるなら、イエスが群衆を満腹させることができると信じてもよかった。でも彼はまだ信じてはいない。
☆神が私たちに求める生き方
- (警告)15節。イエスの行ったしるしを見て、人々はイエスを王にしようとした。イエスには大いなる力があるが、イエスに自分が期待する役割を演じさせることは間違い。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様は大勢の群衆を満腹させたいと考え、フィリポに「どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねました。他の福音書では、自分たちがいるのは人里離れた場所なので弟子たちは「群衆を解散させ、自分で食べ物を買いに行かせましょう」と語っています。
- イエス様は、様々な状況下で、私たちに「どうしたらよいか」と尋ねられるお方であると思いました。私たちはイエス様を神から遣わされた救い主、神の子と信じています。また私たちは福音を伝えるようにイエス様から使命を受けています。この日本でどのように伝道したらよいのか、イエス様は私たちに問いかけておられると考えることができます。その場合、イエス様は御自分が何をしようとしているのか知っておられます。イエス様は働いてくださるのですね。イエス様のお働きを期待しつつ、私たちはどのように伝道するか、です。
- 天の父、私は引退牧師です。務めから退いた者です。しかしキリスト者としてこれからも生き、キリストの証人として生きていくつもりです。ふと思いついたのは、求道者向けというか、キリスト教に関心を持っている人へ発信してもいいかなと思いました。祈りの課題としていきたいと思います。
☆与えられた導き
- キリスト教に関心を持っている人への発信について祈りから始める。