ヨハネ福音書 4章16~26節
2019年6月28日
(内容)
- サマリアの女性とのイエスの対話の続き。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときが来るとイエスは語られる。
(黙想)
- 女性のイエスに対する認識に注目してみる。19節で彼女はイエスを預言者と見ている。自分に対して水を飲ませてくださいと頼んだ一人の男性を、預言者と見るようになった。彼女はさらに、「キリストと呼ばれるメシアが来ることは知っています」と語ります。これに対してイエスは、「それはわたしである」と語ります。この言葉を受けて彼女はどう思ったのか。
- 私たちは聖書を通してイエスを知り、礼拝の説教を通してイエスを知る。今日の聖書でイエスは「わたしがメシアだ」と語られる。「あなたは私を何者というか」とペトロはイエスから尋ねられた。イエスとは誰なのか。私にとってどのようなお方なのか。この方とどう関わって私は生きるのか。問われる思いがする。
- サマリアの人たちは知らない方を礼拝しているとイエスは言われた。奈良では神社、お寺に参拝する人が多い。彼らも結局知らないものを礼拝していると言える。しかし私たちは知っているものを礼拝しているとイエスは語る。神さまがいかなる方か、私たちは聖書を通して知り、その神を私たちは礼拝しており、私たちも知っている方を礼拝していると言える。しかし神さまについて、どれほど、何を知って礼拝しているかは問われる。
- イエスはとても重要なことを語られる。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。「霊と真理をもって」とは何を意味しているのだろうか。
- まず「霊」について。24節では「神は霊であるから、だから、礼拝する者は、霊と真理をもって」とあり、神が霊だから、それに対応して私たちも霊と真理とをもって礼拝する。。聖書は人間を霊と魂と体からなる存在と書いている。神が霊だから、私たちの霊で、礼拝をするとの意味になるのではないか。私たちの霊は、信仰を持つ以前は死んでいた。アダムとエバが、禁じられた木の実を食べた時点で、彼らの霊は死に、神との交わりを失った。しかしイエスを信じることによって、私たちは生まれ変わり、私たちの霊は回復し、神さまとの交わりに生きるようになった。だから、霊的に回復した者として礼拝をささげるとの意味と理解する。聖霊に導かれて礼拝するという解釈もあると思うが、どうだろう。賛成したくない。
- 次は「真理をもって」。口語訳聖書では「まこと」。真理は私たちのうちにはない。ヨハネ福音書では、イエスは真理であり(14:6)、イエスの語る言葉は真理であり(8:45)、聖霊は真理の霊であり(14:17)、聖霊はイエスの言葉を私たちの思い起こさせる方である(14:26)。私たちは真理を行う者(3:21)であり、真理によって聖別された者である(17:17)。また真理に属する者(18:37)である。
- 口語訳聖書の「まこと」を人間の真実な態度と考えることもできるが、真実な態度で礼拝する、は内容的にあいまいに思える。私たちの内には真理はないが、私たちは真理を聞き、真理に属し、真理を行う者であり、そのような者として神を礼拝すると考えれば、意味ははっきりする。
- 霊と真理をもっては、二つのことを述べているのではなく、一つ事を述べているように思える。信仰者とは、御言葉によって、真理によって生きるべく新しく生まれた者であり、真理に生きる者である。そのような者として神を礼拝するということと考えることができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)私たちは父なる神を礼拝する。神は、ご自分がいかなる方かを私たちに明らかにしてくださる神である。
- (御父)神は霊である。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)私たちは神を見知らぬ方として礼拝をささげるのではなく、神を知っている者として礼拝を献げる。その意味で、礼拝の中で使徒信条などで信仰告白をすることは、私たちは神をいかなる方として信じているのかを明確にするので意義がある。自分が礼拝する神はいかなる方であるかを確認できる。
- (勧め)礼拝に行くとき、前もって、神をどのように知っているのかを思いめぐらすことも大切なのではないか。説教テキストが予告されているなら、その箇所を思いめぐらし、その聖書が、神をいかなる方として描いているのかを知ることは有意義と思う。
- (吟味)自分は霊と真理をもって礼拝する者であるか否か。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もデボーションをできて感謝します。「霊と真理をもって」礼拝することについて、黙想し、自分なりに「霊と真理をもって」の意味を理解することができて感謝します。
- 私は聖書の言葉を真理の言葉と受けとめ、物事を考えるときは、真理の言葉を土台として考えるようにしてきました。そしてみ言葉をただ学ぶだけでなく、思いめぐらし、あなたから導きをいただき、それを実行し、真理の言葉に生きる努力をしてきました。決して完璧ではなく、欠けも多いことを知っています。霊と真理をもって礼拝できていることを知り感謝します。
- 今日心にとまったのは、私たちは知っている方を礼拝するということです。礼拝の中で、使徒信条を告白し、自分の信じる神がいかなる方であるかを確認はしています。しかし、神はそのような信仰告白文ですべてを言い尽くされるような方ではありません。聖書を読めば神さまがいかなる方かが語られています。礼拝の説教テキストが予告されているので、明後日の礼拝には、その箇所を読んで、神がいかなる方かを思いめぐらし、その上で礼拝出席、説教を聞くこととします。今日のデボーションを感謝し、み言葉を持って導き、生かしてくださるあなたを讃えます。
☆与えられた導き
- 明後日の礼拝の説教テキストを思いめぐらす。神がいかなる方かを思いめぐらし、神を知る者として礼拝を献げる。
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礼拝の説教テキスト 使徒言行録17~26節
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- (概略)
- 使徒たちは捕らえられて牢に入れられた。夜中に主の天使が牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、神殿の境内で命の言葉を伝えるように命じた。使徒たちは夜明け頃から神殿の境内で教え始めた。
- (神はいかなる方であるのか)
- この箇所を読んで、神は、何としても使徒たちを通して、イエス・キリストを、福音を、命の言葉を宣べ伝えさせたいと考え、行動しておられる。天使を遣わし使徒たちを牢から解放させた。
- 神さまは何としても使徒たちを通して命の言葉を宣べ伝えさせたい方。福音を、命の言葉を語らせたい、そう願い、説教者を用いられるのが神さまである。