ヨハネ福音書 3章9~15節

2019年6月13日

(内容)

  • 新しく生まれることを信じられないニコデモに対してイエスは、こんなことが分からないのかと咎めた。さらにイエスは地上のことを話しても理解できないなら、天上のことを話しても理解できないだろうと告げ、人の子が上げられるのは信じる者が永遠の命を得るためと語られた。

(黙想)

  • ニコデモは人が新しく生まれることを信じられなかった。聖書はイエス様を信じる者が新しく生まれ変わることを告げている。新しく生まれ変わるといってもどのように生まれ変わるのか、はっきりしていないと生まれ変わった者として生きていくことができない。イエスは新しく生まれるとは霊から生まれることだと語る(6節)。
  • 新しく生まれるとは、基本的に、イエスの語られたことを信じて生きていくことであろう。イエスが私は命のパンと語るが、この命のパンを食べて生きることが新しく生まれて生きることになるのではないか。1章では、イエスを信じる者は、神から生まれると書かれていた。聖書の神は、語り、行動する。これに応答することが信仰者の生き方である。新しく生まれるとは、結局、神との交わりに生きるようになることと言える。
  • イエスが地上のことを話しても信じないなら、天上のことを話したら、なおさら信じることができないだろうとの言葉。天上のことの一つは、天にいる父なる神はイエスを地上に送ったことがある。イエスが地上で行う奇跡はイエスが父なる神から地上に送られたことのしるしである。
  • 僕にとっては、終末の事柄、特に信仰者が栄光を与えられて天に迎えられることに関心がある。信仰者の究極的な未来である。それはイエスが語られた地上のことを信じなければ、信じることはできない。
  • 最後にイエスは、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならないと語る。これは民数記21章に書かれている。イスラエルの民がエジプトから解放され、荒野を旅した。パンも水もなく、粗末な食事に耐えられなくなり、なぜ、エジプトから導き上ったのかと不満を語った。すると神は炎の蛇を送り、噛まれた民は死んだ。民は罪を告白した助を求めた。すると神は、炎の蛇を作り旗竿の先に掲げることを命じる。これを見あげれば蛇に噛まれた者は命を得るとのこと。この故事をイエスは引用し、自分も上げられることを語る。上げられる自分を信じる者は永遠の命を得ると(ニコデモに)語られた。
  • 人の子が上げられるとは、イエスが十字架の上で亡くなり、天の父のもとへ帰ることを指している。ヨハネ福音書において十字架につけられたイエスは「成し遂げられた」といって息を引き取る。地上でなすべきわざをなし終えて父のもとに帰る。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)10節。人が新しく生まれることを信じないニコデモをイエスは咎めた。ニコデモは自分の考えを基準にして物事を考えている。自分の考えを基準にするニコデモをイエスは咎めた。神の語られることが基準なのである。
  • (御子)12節。イエスは天上のことを語られる方である。
  • (御子)14節。イエスは天に上げられる方。天に帰られる方、
  • (御子)15節。イエスを信じる者は永遠の命を得る。
☆神が私たちに求める生き方
  • (勧め)私たちは水と霊によって新しく生まれることを信じること。聖書から、新しく生まれるとはどういうことか、新しく生まれた者として生きるとはどういうことかを知る必要がある。
  • (警告)11節。私たちは自分が信じられることは信じるが、信じられないことは信じないという傾向がある。自分を基準にして物事を考える。それは人として当たり前に見えるが、信仰者はそうであってはならないだろう。信仰者は神を信じる者であり、神によって生きる存在。神の言葉によって信仰者は生きる。神の言葉こそ、信仰者が考え、決断する基準である。
  • (慰め)14~15節。イエスは天から地上に来られたので、天に帰られた。私たちもやがて天に迎えられる。イエスが天に上げられたことは、私たちが天に迎えられることを信じてもよい根拠となるのではないか。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私たちが自分を基準にして物事を考えるのは自然なことであり、誰もそのことに疑問を持ちません。しかし信仰者として生きることを考えるとき、神さまの言葉を出発点として考えることが大切であると思います。自分の思いであなたの言葉を評価するのではなく、あなたの言葉によって、自分の考えを吟味すべきなのですね。
  • 自分の思いを出発点にすると、終末の事柄は絵空事に見えたり、真剣に信じようにも理性がついていかないような面があります。どうしたら自分の理性で納得して信じることができるのか、などと考えてしまいます。でもそれは間違いだと教えられます。
  • 聖書が語ることが出発点ですね。聖書が語ることが信じられないとしたら、自分が信じられるものは信じる、信じられないものは信じないという、自分を神さまより上におくことなんですね。自分の考え方が本末転倒していることを思います。悔い改めます。あなたの言葉を出発点とします。
  • またイエス様が天に帰られたことは、私たちもまた天に迎えられることを示唆していますね。それはうれしいですね。私もイエス様のように天に迎えられるという考えは励ましです。死を受け入れるために、助けとなりますね。ありがとうございます。
☆与えられた導き

・自分を出発点として物事を考えることを悔い改める。神の言葉を出発点とするようにあらためる。
・イエス様が天に上げられたように、私たちも天に迎えられる、このことを胸に刻みたいと思います。