ヨハネ福音書 2章1~12節
2019年5月29日
(内容)
- イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるというしるしを行い、その栄光を現された。召使いたちはイエスに命じられたように瓶に水を満たした。水がぶどう酒に変わる奇跡を目撃した。
(黙想)
- イエスは「わたしの時にはまだ来ていません」と語られた。「わたしの時」とは十字架に上げられる時である。イエスはこれ以降「わたしの時」と何回か語られる。十字架につけられることを意識しているイエスがいる。
- 水がめに入れられた水がぶどう酒に変わるという奇跡をイエスは行われた。この福音書では、「奇跡」と言わず「しるし」という。それは行われた奇跡が、それを行ったイエスが神の子であることを指し示すので、しるしと呼ばれている。
- イエスは、しるしを行い、神の子としてのご自分を現された。それを言い換えると、栄光を現された。その栄光は誰にでも見えるものではない。イエスを神の子と知ることは、イエスの栄光を見ることである。私たちがイエスを神の子と信じることは、イエスにとっての栄光なのである。私たちがイエスを神の子と信じる行動をすることはイエスの栄光を表すことになる。
- 水をぶどう酒に変えることのできる方は、罪を犯す者たちをその罪から清めることができるお方である。
- イエスの母はぶどう酒がなくなるという事態をイエスが何とかできると考えていた。イエスが普通の人間はないことに気づいていたことになる。でもイエスは、人の要求に応じてしるしを行うことはなさらない。
- 水をぶどう酒に変えるというしるし(奇跡)を見た弟子たちはイエスを信じたと書かれている。一体、何を信じたのかと思う。著者ヨハネは、しるしを見て信じることは大切であると語っているのかも知れない。この福音書にはしるしを見ても信じようとしない人たちも登場している。
- 「水がめに水を一杯入れなさい」とイエスは召使いたちに命じた。召使いたちは素直に従った。その結果として水がぶどう酒に代わっている。われわれがイエスに素直に従う時、その行為は、何かに用いられるということがあるのかも知れない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)人からの求めに応じてしるしを行わないが、結果的に応じている。恵み深い方である。
- (御子)水をぶどう酒に変え、ご自分が神から遣わされた神の子であることを示す方。
☆神が私たちに求める生き方
- (模範)11節。しるしを見て弟子たちはイエスを信じた。見て信じる、これは大切なこと。見ても信じない心の頑なさは捨てたい。同時に、見ないと信じない態度も捨てたい。イエスは見ないで信じる者は幸いだと語っている(ヨハネ20:29)。
- (模範)7節。召使いたちはイエスから命じられると水を水がめに一杯満たした。それにより水がぶどう酒になるという奇跡が起きた。イエスに素直に従う時、その従順な行為は、神によって用いられることがある。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、今日の聖書でもイエス様に従うことが心に留まりました。召使いたちはイエス様から命じられた時、水がめに水を一杯入れました。召使いたちからすれば、イエス様は主人でもないし、イエス様の言いつけになぜ従ったのかと思いますが、妥当な内容だったので従ったのでしょうか。
- イエス様の命令に従い瓶に水を一杯入れたことにより、その水がぶどう酒に変わるという奇跡が起きました。召使いたちはその奇跡の目撃者となりました。私たちはイエス様に従う時、その行為が神さまによって用いられる可能性を思います。どのように用いられたのか知ることができる時もあるし、知ることができない時もあると思います。イエス様に従う理由の一つがここにあることを知りました。従順の行為は用いられる可能性がある。素晴らしいことだと思います。
- 今ひとつ悩んでいることがあります。些細な事柄ですが、愛をもって処することが大事だと思いました。自分の感情は脇におき、愛をもって振る舞うように教えられた気がします。ありがとうございました。
☆与えられた導き
- 愛をもって行う。