ヨハネ福音書 1章14~18節
2019年5月21日
(内容)
- 言葉肉となり、私たちの間に宿られた。私たちはその方の栄光を見た。それは
恵みと真理に満ち、私たちはこの方から恵みに恵みを受けた。
(黙想)
- 14節で、私たちはその栄光を見た、とある。私たちはイエスの栄光を見たというのである。どういうことだろうか。しかも父の独り子としての栄光。そして恵みと真理に満ちていたという栄光。ヨハネはこの栄光をいつ、どのように見たのか。
- ヨハネ福音書2章にイエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変え、ご自分の栄光を現されたと書いている。水がぶどう酒に変化したことは奇跡であるが、それはしるしである。イエスが神の子としての栄光を現すとは、しるしを通して、ご自分が神の子であることを示すことと言ってよいのではないか。
- しるしを見て、イエスを神の子と信じるのは信仰による。信仰がなければ、不思議なことを見たで終わってしまう。
- 栄光を現すとは、しるしを通して、御子であることを示すことといえるのではないか。4章でイエスはカナで王の役人の息子の病気を癒やしたことが書かれており、2回目のしるしであるとヨハネは書いている。
- 5章でイエス様は神殿内の池で38年も病気だった人をいやされた。6章では、五千人もの人たちに食べ物を与えている。それは主イエスが命のパンであることを示すしるしであった。9章では盲人の目を見えるようにした。この出来事はイエスこそ心の目、霊の目を見えるようにする方であることのしるし。11章では死んだラザロを生き返らせた。イエスは「私は復活であり命である」と語られた。イエスこそ命であり、イエスを信じる者は生きることを示している。
- そして十字架の上で亡くなられた。ヨハネ福音書では、イエスの死は、すべてのことを成し遂げて、父のもとに帰る死であった。ご自分が命なる方、神の子であることを示す働きを終えて天に帰られたのである。
- 私たちはイエスの栄光を見たとヨハネが書くとき、イエスが光に輝く姿を見たわけではない。単純にイエスが神の子であることを信じたということではないか。あるいはイエスはしるしを通してご自身が神の子であることを示されたということではないか。イエスを神の子と信じるとき、私たちはイエスに栄光を帰するのではないか。
- 他の福音書では、イエスが三人の弟子たちと一緒に山に登ったとき、弟子たちは栄光に輝くイエスを見たとある。そのように栄光に輝く姿をその時以外に弟子たちは見ていない。
- 弟子たちは、イエスに神を見たのであり、神を知った。神を知るとは、恵みと真理を受け取ることでもある。神は恵みの神であり、私たちに真理を教える方である。この恵みと真理を受けて生きることが信仰に生きることとなる。
- 律法はモーセを通して与えられた。神はイスラエルのために掟を与え、生き方を指示した。今や私たちは、イエス・キリストの栄光を見た。その栄光は神は恵みと真理に満ちていたとある。つまりイエス・キリストこそ恵みと真理に満ちている方である。神はイエス・キリストを私たちに与えてくださった。信仰に生きるとは、律法を守ることではなく、イエス・キリストとの交わりに生きることである。これが恵みとを真理受けて生きることであり、恵みの上にさらに恵みを受けるということだと思う。
- 私たちには自分の考えというものがあり、イエス・キリストによって与えられる恵みと真理を受け入れるとは限らない。そこに人間の罪がある。私たちは信仰により、救いの恵みを受け、真理の言葉を与えられて生きる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)父なる神は、御子を世に送られた方である。
- (御子)恵みと真理に満ちた方。
☆神が私たちに求める生き方
- (勧め)恵みと真理を受け取ること。
- (模範)ヨハネは恵みの上に恵みを受けたと証しをしている。ヨハネは模範。私も恵みと真理を受け取ったと証しをすることができるし、証しをしたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私は主イエスが神の子であると信じます。でも直接会ったこともありませんし、聖書を通して知ることしかできません。福音書を読み、主イエスのお姿を想像しても、主イエスの栄光を見ることができるとはなかなか言えません。
- その人格を称賛したくなる人物がいたとします。その場合、その人の素晴らしさ、栄光を見るということができると思います。私にとって主イエスは聖書を通し、おぼろげに見える存在です。しかしその教えは言葉を通して明確に知ることができます。イエス・キリストとの交わりに生きるとは、神のみ言葉を真理として生きることだと考えます。
- 終わりの日、主イエスが再臨されるとき、私たちは主イエスを「見る」と聖書に書かれています。私は主イエスを見ることができることを楽しみにしたいと思います。自分の死は、主イエスを見るために通るドアのようなものと受けとめることができますね。そのように死を位置づけることも大切なことではないかと思いました。私たちは諦めて死ぬのではなく、希望を持って死ぬのです。
- 恵みの上に恵みを受けた。これは私の経験でもあります。信仰によって救われ、恵みによって生かされています。恵みによって生きていることの証しを私もしたいと思いました。祈祷会で伝えたいと思っていることがあります。教えるのではなく、証しの言葉として語り、考えていただければと思っています。明日の祈祷会で語るチャンスがあれば語らせて下さい。
☆与えられた導き
- 祈って祈祷会に備える。