ルカ福音書 23章1~25節

2019年4月18日

(内容)

  • イエスは、ローマ総督ピラトのもとで尋問を受ける。さらにはガリラヤ地方を治めるヘロデの尋問を受ける。最終的にピラトのもとでの審きを受け、死刑に処せられることになった。

(黙想)

  • 今日の聖書には、人間の罪が描かれている。宗教指導者たちはイエスを死刑にするために中傷さえする。イエス様は皇帝に税を納めるのを禁じてはいないのに、禁じたと訴えている。宗教指導者たちが人を中傷し罪に陥れるのである。ひどいとしか言い様がない。彼らからすれば、イエスは神を冒とくした者、何が何でも死刑にしなければならないとの思いである。ある目的の実現のためにとる手段が間違っている時、その目的は正当化されない。
  • ヘロデはイエスの行う奇跡を見ることができないとなると、イエス様をあざけり侮辱している。卑しい根性、卑劣なヘロデの有様である。愛は他者の人格を尊重するので、ヘロデの行為は愛とは真反対の罪である。
  • そしてピラトは、イエス様に罪を見出せないのに、人々の声に負けてイエス様を引き渡した。罪のない者が死刑になるのを許可する、為政者としてしてはならないことである。ピラトは保身に走った。
  • 人々の罪がイエス様を死に追いやる。そしてその死は人々を罪から救うためである。
  • イエス様は中傷されても、あざけられても抗議の声を上げない。なすがままにされている。なぜか。復活したあとイエス様はエマオに向かう弟子たちに自分の身に起きたことが聖書に書いてあるとおりのことであると説明している。自分の身において旧約聖書に書かれている神による救いのわざが実現したと語っている。言い換えると神の救いの業に参与している。神の計画を担っている、神の計画に身をゆだねることをよしとしている。だから抗議もせず、抵抗もせず、されるがままになっている。

詩編22:8~9
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

イザヤ53:6~8
わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

  •  神の計画とのかかわりに生きるイエス様の姿は印象的である。そのためには自分の命さえ犠牲にするのである。
  • 私たちが関わる神の計画、神の業というものがあるのだろうか。ある。それは聖書が語る終末である。終末はまだ来ていない。現代人にとって世界の終末が訪れ最後の審判が行われるなんて絵空事であろう。キリスト者といえどもどれほど真剣に受けとめているだろうか。最後の審判なんてあるかどうかわからない、死んで神のもとに行ければそれでいい、そう思っている信仰者も少なくないと思われる。終末に関わる事柄は、神の計画として聖書に書かれている。あるいは約束されている。それならこれを本気で受けとめる、それがあざけりと中傷を受けながら十字架の死を遂げたイエス様を信じるということではないか。イエス様は神の計画に殉じたのである。十字架に向かうイエス様の心中、覚悟を見る思いがする。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)神の計画を担い、中傷され、あざけりを受け、侮辱されることを受け入れている。
☆神が私たちに求める生き方
  • (罪)他者を誹謗中傷することは罪である。このようなことをしてまで達成しようとする目的に正当性があるのか。間違った手段(ここでは中傷)をとるとき、果たそうとする目的が正当化否か、吟味することが必要である。ピラトのように自己保身に走り人の命が奪われることを見過ごしにする。為政者としての責任放棄。ひどい罪!ヘロデは、人をあざけることを楽しんでいる。卑劣!
  • (模範)神の計画に関わって生きるイエス様は模範。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、イエス様のお姿が心に残ります。神さまの救いの計画が自分を通して実現することを知り、神さまの計画に用いられる歩みをされます。メシアがどのような目に遭うのか、イザヤ書や詩編に書かれています。それが実現すべきとお考えになり、中傷を受け、あざけられ侮辱されてもなすがままにされています。抗議も抵抗もなさいません。無力と思える主イエスのお姿の中に、神さまに従う、神さまに用いられるとの覚悟を見る思いがします。
  • 天の父、私もあなたのご計画の中に身をゆだねたいと思いました。今日は特に終末のことを思いました。イエス様のおかげで私たちは最後の審判を恐れる必要も無く、むしろ心を高く上げることができます。「おわりの日がきたなら、さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに こころを高くあげよう」。
  • キリスト者の生き方として終末を見据えて生きることが大切であると知ります。終末の到来、最後の審判は、現代人には絵空事に見えます。私の中にもそう感じる思いがないわけではありません。真剣に受けとめる、それが課題です。今日、イエス様の十字架に向かう覚悟を知らされ、私も神さまのご計画に身を殉じたいと思いました。
  • 自分の中にある現代人的意識に抗して、「私は神さまの計画を信じます。終末の事柄について本気で信じます」と御前に告白します。そして、「主イエスよ、あなたにお従いします」と告白します。
☆与えられた導き
  • 信仰の告白をする。