ルカ福音書 22章14~18節
2019年3月19日
(内容)
- イエス様は弟子たちと一緒に過越の食事を取られた。いわゆる聖餐制定の場面の直前の部分。過越の食事についてイエス様が語っている。
(黙想)
- ここで際立つことは、イエス様が過越の食事を弟子たちと一緒にすることを切に願っていたということ。また「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と語られ、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と語られたこと。
- 「言っておくが」で始まる二つの文章は似たことを語っているように見える。つまり「神の国で過越が成し遂げられるまで」と「神の国が来るまで」とは同じ意味であり、終末の神の国が到来するまでの意味となる。
- まずイエス様は、弟子たちと過越の食事をすることを切に願っていた。過越の食事は出エジプトを想起するものとして行われる。過越の食事は、神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態からの解放したことを記念する食事である。イスラエルを解放した生きて働く神、この神こそイスラエルの神であり、イスラエルはその民である。このことを覚えるためにイスラエルの民は毎年過越の食事を行う。
- 出エジプト記によれば、神はイスラエルの民に小羊を屠ること、小羊の血を鴨居に塗ることを命じられた。神の使いは鴨居に血の塗られたイスラエルの家は通り過ごし、血の塗られていないエジプト人の家では、初子が皆死ぬという災いが起きた。その結果、イスラエルの民はエジプトから解放されるという救いの出来事が起きた。
- ここで小羊の血が流されたことに注目する必要がある。イエス様は御自分が苦しみを受けて亡くなることを知っている。十字架の上で流されるイエス様の血は、あの小羊の血と同じなのである。小羊の血が流されることによって神の救いの御業が起きるのである。イエス様は御自分の死が挫折の死ではなく、救いの出来事を導き出すための死、人々を救うためのものであることを伝えたかったのである。それが過越の食事を弟子たちと共にしたかった理由なのではないか。イエス様にとってご自分の死は、神による救いの業に仕える死なのである。イエス様はそのようにご自分の死を受けとめられたのである。「見よ、神の小羊」。
- 「神の国での過越」とは、どういうことだろうか。地上のイエス様が十字架で処刑される場面を見ていただけでは、その出来事が何を意味しているのかわからない。しかし神の国では、言い換えると神の視点では、救いの出来事が起きているのである。小羊が屠られ救いの御業がなされるのである。出エジプトにおいては、エジプトにおける奴隷状態からの解放という救いの出来事が起きたが、小羊であるイエス様の血が流されることによって、罪からの救いという出来事が起きるのである。それはイエス様の時から世の終わりの時まで、なされる神のみ業である。天上ではそのことは明らかであるが、地上では明らかではない。
- 「わたしは決してこの過越の食事をとることはない」。不思議な言葉。イエス様はまもなく十字架の上で亡くなる。この地上で過越の食事をすることはあり得ない。わざわざ言明する必要はない。なのになぜこの発言?それはもはや過越の食事は必要がなくなったということか。今やイエス様を通して新しい救いの出来事が起きることを伝えているのではないか。イエス様は「私の記念としてこのように行いなさい」と過越の食事に代わるものを設定しようとしているのか。エジプトにおける過越の食事は、出エジプトという一回限りの救いの出来事を指し示す。しかしイエス様による救いの出来事は、世々に渡って多くの人を救う。その意味で、イエス・キリストによる救いは終わりの日まで人々の身に起きる。イエス様は、過越の食事の廃棄を語られたのである。それは新たな過越、私たちの言葉で言えば、聖餐を制定するためと言える。
- 18節では、「ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とある。ぶどうの実から作ったものとは、ぶどうジュースか、ぶどう酒である。イエス様はまもなく十字架の上で亡くなるのだから、「ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」という発言はあまり意味がない。何を意味しているのか。マタイ、マルコでは、父の国(神の国)であなたがたと共に飲むまで、とある。つまり神の国での祝宴が想定されている。ルカはそのような説明を加えていない。ではイエスの発言をルカはどう考えているのだろうか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエス様は、ご自分の死が挫折の死ではなく、人々を救うための死であることを弟子たちに伝えたかったのではないか。それが過越の食事を弟子たちと共にしたいと願った理由である。十字架の死はみじめな死であるが、神さまの救いのみわざに仕えるために、イエス様は十字架の死を受け入れられた。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神さま、イエス様はご自分の死を神さまの救いの出来事に仕えるものとして受け入れられました。自分の死を神さまに仕えるものと受けとめられました。パウロも、「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピ1:20)と語っています。人間の死は、単に人生の終わりではなく、神に仕える死なのですね。またパウロはこうも語っています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。
「死ぬとすれば主のために死ぬ」とは、殉教の死を遂げることだけを意味しているとは思いません。死を考えるとは、生きることを真剣に考えることだと思います。主のために死ぬとは、主のために生きることと同じですね。そして私も老いました。心ではそう思いませんが、自分の写真を撮ればそこに移っているのは老いた人物です。
天の父、イエス様は弟子たちにご自分の死の意味を語ることはなさいませんでした。これから起きる十字架の死は無駄死にではないことを暗黙に伝えるだけでした。語っても弟子たちは理解できなかったと思います。イエス様は既に三回もご自分の苦難の死と復活を語られましたが、弟子たちはその意味を知ることはありませんでした。しかし後になって、その意味が明らかとなり、弟子たちはイエス様を救い主として宣べ伝えました。ある人の語ることの意味が同時代の人には理解されないが、後になってその意味が明らかになることがあります。
天の父、私は自分のディボーションを公開しています。多くの人に読まれているとは思いませんが、私のなかでは、神の言葉こそ、人を生かすものであることの証しとして、公開していることをあらためて感じました。ディボーションを行い、御言葉に生きることの大切さが多くの信仰者に理解される日が来ることを信じます。それゆえ、許される限りこれを行い続ける、それが主のために生きることであり、主のために死ぬことであると思わされました。これからも導いてください。
☆与えられた導き
ディボーションを教えられたこと、これを続けられることを感謝し、
さらに続けられるようにと祈る。私を導かれる神さまをたたえる。