ルカ福音書 19章45~48節

2019年1月16日

(内容)

  • イエス様は神殿の境内に入り、そこで商売をしている人々を追い出し初めて、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われた。

(黙想)

  • 神殿では神への献げ物として動物のいけにえが献げられる。いけにえを献げることについてはレビ記に規定が書かれている。その規定に従って、いけにえが献げられている。遠くから神殿に来る人のためにいけにえとなる動物が売買されていた。いけにえを献げるためには動物を売る人が必要となる。
  • そしてそこに商売が成立している。その商売について、イエス様の目に余るものがあったと思われる。その商売の有様がイエス様の目には強盗の巣に見えた。強盗の巣、そこは強盗たちが集まっている場所。絶好の獲物がある場所である。神殿が食い物にされている。神殿の礼拝を司る祭司たちは、それを見過ごしているか、そこから利益を得ていると言える。
  • イエス様のこの言葉はイザヤ書からの引用。そこを読むと神殿でいけにえを献げること自体は否定されていない。むしろ神はいけにえを「受け入れる」と語られる。いけにえを献げる心を神は見ているようだ。礼拝が形式化していくと、礼拝は、礼拝するものの自己満足につながっていく。
  • 今の私たちで言えば、教会の礼拝がどのように行われているのか、礼拝に集う一人一人がどんな思いで集っているのか、それを点検する必要をイエス様は教えているように思う。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か

  • (御子)45節。イエス様は神殿の境内に入り、そこで行われていることを見てお怒りになった。そこで商売をしている人たちを追い出された。イエス様の怒りは聖なる怒りと言える。神殿は神を礼拝する場所。神殿が強盗の巣になっていることにイエス様は激しい怒りを覚えられた。

☆神が私たちに求める生き方

  • (教え)46節。神殿は祈りの家でなければならない。神が喜ばれる礼拝が献げられていなければならない。礼拝が宗教的自己満足を得る手段となっているような礼拝はあらためなければならない。

(神の導き)

☆祈り

  • 天の父なる神様、イエス様は、私たちが献げる礼拝を吟味するようにお語りになっています。私は今、N教会の礼拝に出席しています。また無牧のG教会の礼拝に出席し、説教の奉仕をしています。イエス様がご覧になったら何と思われるのでしょうか。真摯に礼拝が献げられていると私は思います。でも問題がないのか、と言われたら、「ない」とは言えません。伝道が振るわないからです。私たちの礼拝や信仰生活には足りないものが色々あるのだと思います。
  • 神さまに対する畏れが本当にあるのだろうか。神さまを自分の幸せを得るために利用していないだろうか。福音が何か、分かったつもりで生きていないだろうか。信仰者の生き方はいろいろ説教されているが、福音が本当に説教されているのだろうか。「十字架の恵み」と語っていれば、十字架の恵みが伝わると思っていないだろうか。顧みるべきことは多々あるように思います。
  • 神さま、あなたは今日、私に何を語りかけておられるのでしょうか。N教会の礼拝で一つ気になることがあります。そのことを承知はしていましたが、そのことを祈ってはいませんでした。それを祈ることにします。

☆与えられた導き

  • 気になっていることを祈り続ける。