ルカ福音書 18章35~43節

 

2018年12月26日

(内容)

  • イエス様がエリコに近づかれたとき、一人の盲人がイエス様に憐れみを乞い、目が見えるように頼みました。「憐れんでください」と叫び続け、イエス様は彼を顧み、目を見えるようにしてあげました。

(黙想)

  • 盲人の目を見えるようにするとの奇跡物語ですが、前の段落と関係があるように思います。前の段落では、イエス様の苦難の死と復活の意味が弟子たちには隠されていて、弟子たちは理解できなかったとあります。盲人の開眼の物語は、私たちの心の目が開かれ、イエス様の死と復活の意味が理解できるようになることを伝えているように思います。
  •  盲人は、イエス様に憐れみを求め続けました。彼の求めは真剣でした。自分が無力であることを知りイエス様に憐れみを求めたのです。彼はなりふり構わず叫び続けました。なりふり構わない、そこに真剣さを見ます。

 

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か

  • (御子)イエス様は憐れみ深い方で、憐れみを求める人を顧みてくださるお方です。

☆神が私たちに求める生き方

  • (模範)41節。イエス様に憐れみを乞うこと。神さまの戒めを実行できるように憐れみを求めることは大切です。私たちは神さまの教えを難しいとかいって実行しようとしません。これは自分の罪にとどまる態度です。しかもそれを正当化しようとしています。謙遜に自分の罪を認め、神さまの教えを行わせてくださいと憐れみを求めることは大切です。
  • (模範)43節。目が見えるようになった盲人は、神さまをほめたたえました。私たちは、神さまに感謝をします。感謝、それは自分の気持ちの表明です。盲人は神さまを讃えました。彼は神を仰いでいるのです。感謝を献げる私たちは果たして神さまを仰いでいるのか、問われます。

(神の導き)

☆祈り

  • 天の父なる神様、私はあるとき気づきました。私たちが祈る時、感謝の言葉は出てくるのに、あなたをたたえる言葉が少ない、もしくは全くないことに気づきました。礼拝の司式者が祈る祈りを聞けばそのことは確認できます。結局、私たちの心は自分に向いていて、神さまに向いていないのですね。だから神さまをたたえる言葉が出てこないのだと知りました。だからといって感謝を祈る時に、言葉だけ神さまを讃えますといっても、空しいです。心から神さまをたたえる心が与えられたいです。
  • とすれば、神さまをたたえる心を与えてくださいとイエス様に憐れみを乞うことですね。その前に、自分の心がいつも神さまを仰いでいることが必要ですね。あなたのみ心を大切にする心でありたいと願います。
  • 今日の聖書で言えば、イエス様は憐れみを求める人を顧みてくださるお方です。イエス様は憐れみ深いお方なのですね。そして神さま、あなたも憐れみ深いお方ですね。あなたが憐れみ深いお方であることをどれほど意識していたかと考えます。知識としてはあなたが憐れみ深い方であると知っていました。でも心では、あなたが憐れみ深い方であることは意識されていなかったことを思います。神さま、申しわけありませんでした。結局、私の心も自分を向いているということなのですね。
  • あなたが憐れみ深い方であることを意識付けします。あなたはシナイ山の山頂でモーセにご自分がいかなる方かを示されました。
  • 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」(出エジプト34:6~7)。
  • 天の父なる神、この聖句を壁に貼り、祈りのつど、この聖句を朗読することにします。またディボーションにおいて、あなたのみ心に心を向けることができるように努力します。

☆与えられた導き

  • 壁に聖句を貼る。