ルカ福音書 18章18~30節
2018年12月18日
(内容)
- ある議員が主イエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいですか」と尋ねたことから始まる、議員との対話、そして人々に対する主イエスの教えが書かれています。
(黙想)
- 主イエスは、戒めを守れば永遠の命を得ることができると考えているのでしょうか。つまり人間の努力で永遠の命を得ることができると主イエスは考えておられるのでしょうか。
- 22~23節で、持っているものをすべて売り払い貧しい人に施し、その上でわたしに従いなさいと主イエスは答えました。でもそうすれば永遠の命を得られるとは語っていませんが、議員に対する答えなので、永遠の命を得ることができると解釈することはできます。
- しかし29節以下では、「神の国のために~する者はだれでも、後の世では永遠の命を受ける」とあります。人間の努力で永遠の命を得ることができるかのように主イエスは教えておられるように見えます。一見、人間の努力で永遠の命を得ることができるように教えているように思われます。
- 他方、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだやさしいと主イエスが語ったとき、人々は、「それでは、誰が救われるのだろうか」と語りました。これに対して主イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われました。
- 確かに主イエスは、永遠の命を得るために何をしたらよいのかを教えました。でもそれは、人間には不可能であることを教える意図があったのではないかと思います。人間の努力で何か条件を満たせば、永遠の命を得ることができるように考えるのは間違っていると暗黙のうちに教えているのではないかと思うのです。「人間にはできないことも、神にはできる」は、人間は自分の努力で救いを得ること(永遠の命を得ること)はできないが、神にはできる、つまり神の恵みによって人は救われることを教えようとしているのではないかと思います。
- 24節で「神の国に入る」とあります。これを終末の時に神の国に入ると考えるのか、それとも、今神の国に生きると考えるのか、解釈が分かれます。文脈的には、17章でイエス様は、神の国はあなたがたの間にあるのだと教えています。また今日の箇所の直前では、神の国は幼子のような者たちのものであると教えています。ですから「神の国に入る」は、今神の国に生きる、今神の御支配に生きることを意味しているのではないかと考えます。今、神の御支配の中を生きる生き方を続けるなら、その結論として後の世で永遠の命を受けるというのが主イエスのお考えではないかと思うのです。つまり神の戒めを守ることではなく、神の御支配の中を生きることを考えなさいと主イエスは考えておられるのではないかと思います。
- 主イエスは神の国の福音を宣べ伝えました。神の御支配の中を生きるように、自分の力でなく、神の御支配に信頼するように説かれました。
- 富に対する執着、家族に対する執着は、神さまへの信頼を妨げます。人間は頼りにするものを必要とし、富、家族は便りになるものです。これらの頼りになるものを捨て、つまり頼りにすることをやめ、神に信頼する者は、恵みとして富を受け取りなおし、家族を受け取りなおすことができます。
- それなら主イエスは、戒めを守って永遠の命を得ようと考えず、神の御支配の中を生きるようにと教えればよいのにと思います。人間が教えられたことを素直に受け入れ、その教えに生きるなら事は簡単です。人は自分の思い、考えを持ち、教えられたことを素直に受け入れるとは限りません。自分の考えが間違っていたことに気づくまでは、教えられたことを受け入れることができない、それが人間というものです。主イエスはあえて突き放し、教えようとされたのではないかと思います。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)27節。神は私たちを救うことのできる方です。
- (御子)24節。イエスは、金持ちが非常に悲しんだのを見て、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。この議員は財産を惜しみ、神さまのご支配の中に生きようとしなかったのです。主イエスも悲しまれたことと思います。
- (御子)22,29節。主イエスは人は自分の力では永遠の命を得ることはできないと教えているように思えます。救いに関して人は無力であることを知ることを主イエスは望んでおられるように思います。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)18節。人間の努力によって神さまから祝福を得るという考え方は間違いです。聖書が伝える神は恵みの神さまです。
- (教え)23節。議員は、非常に悲しみました。彼は主イエスに「それはできません。でも永遠の命をいただきたいです。私を憐れんでください」とプライドを捨てて主イエスにどうしたらいいのか求めることができたと思います。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、自分の働きによってあなたから祝福を得るという誘惑が襲ってきます。努力して結果を出す、努力して報いを得る、これは世間では当たり前の考えです。聖書の教えは違います。あなたは祝福されています。だから感謝して生きなさい、これが聖書の教えです。あなたによって救われ、生かされていることを喜び、謙遜に信仰者として生きていけばいいのに、つい自分の働きを神さまが認め、祝福を得よう、報いを得ようという考えが襲ってきます。
- 私は、ディボーションを広めたいとのささやかな願いを与えられ、インターネット上に自分のディボーションを具体的に示し、ディボーションをする人が増えることを願っています。でも反応は少なく、自分のしていることは空しいのではないか、との思いに誘われます。同時に、神さまがこのサイトを用いて何か御業をしてくださらないだろうか、との思いにも誘われます。心の中で、私の働きを神さまに認めてもらいたいとの思いがあるのです。神さまはすでに私の働きをご存じで、喜んでくださっているので、それでよし、と考え、ひたすら続ければよいとの思いもあり、心は右に行ったり、左に行ったり揺れ動きます。
- 今日は、あらためて、自分の行いにより報いを得るとの考えを否定します。むしろ神さまのご支配の中に自分が生かされていることを感謝し、あなたをたたえたいと思います。私はなすべきことをしたに過ぎませんと謙遜にあなたに告白する者となります。
☆与えられた導き
- 自分が導かれ、生かされているゆえに、神さまをたたえる。
- 感謝の応答として、インターネット上にディボーションの証しを続けていく。