ルカ福音書 11章37~54節
2018年8月9日
(内容)
- イエス様は、ファリサイ派の人々、律法学者たちを批判されました。彼らは目が澄んでおらず、神の戒めを守っていたとしても、それは外面的に守っているだけで、神の御心を行っていたわけではありません。
- ファリサイ派の人々は、自分の身の清さを保つ努力をしていましたが、それは外面的な清さであり、心の清さを保っていたわけではありませんでした。手を洗い、手の清さを保っていましたが、心は強欲と悪意に満ちていて、心の清さを求める神の御心は、彼らの眼中にはありませんでした。
- 十分の一を献げていても、正義と愛はおろそかにしています。さらに人から挨拶され、自分が偉い人とみなされることを好んでいます。ここでも神の御心に関心を払わない姿がイエス様によって批判されます。
- 律法学者に対してもイエス様は批判をされました。人に教えても、その教えを守れるようには教えず、人に重荷を与えるだけです。預言者を敬う振りをして、預言者の墓をつくっても、実際には預言者の語ることに聞かず、そしてイエス様の語ることにも聞かず、イエス様を殺そうとさえします。
- さらには、知識の鍵を取り上げ、人々が神の国に入るのを妨げます。教える者、指導者の務めを果たしていません。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエス様は、自分は神の教えを守っていると高慢になっている人を批判する方です。
☆神が求める私たちの生き方
- (勧め)神さまの教えの背後にある神さまの御心を知ることが大切です。
- 手を洗い手を清くすることは、自分が神の前に清い者であることを求めるしるし、あるいは証しです。手の清さだけを求めるのは、衛生的な価値しかありません。私たちはしばしば自分は、神さまの前で<これこれをしている>と誇りに思いがちです。自分を誇る場合、しばしば神さまの御心を忘れている場合があります。
- (警告)教える立場の者への警告。人々に重荷を負わせ、知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、人々が入るのを妨げることのないようにしなければなりません。
- 神さまの教えを人々に教えるとき、まず自分が守る者でなければなりません。自分が守ろうとするなら、守るための困難を知り、その困難をどのように克服して守ることができたのか、証しができます。そうすれば、守ることができるように人々を教えることができます。
- 自分が守ることもせず、教える立場にあって教えることに満足するなら、教えられる人に重荷を負わせるだけです。自分も守ることができず、教える者たちも守ることができません。教える人は、自分が何を教えているのか、敏感にならなければなりません。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は、警告を与えられ感謝します。人に教える者はまず、自分に教えなければならないことを知ります。自分に教えず、ただ人に教えるのは、人に重荷を負わせるだけ、人が神の国に入るのを妨げ、自分も入ることをしないことと警告を受けます。
- 自分自身がみ言葉を聞いて守る、幸いな人になるべきことを思います。自分が幸いになってこそ、人々を幸いへと招くことができますね。
- 明後日の日曜は、礼拝説教の奉仕を与えられています。伝えるべきメッセージは、はっきりしました。そのメッセージを自分がどのように生きたのか、生きているのか、そのことも交えて説教をすることにしたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 説教準備の中で、語るべきメッセージについて、自分がどのように生きたのか、生きているのかを思いおこし、それを交えて説教を語ることにする。
- 「私たちは神の子とされている」。これが伝えるメッセージ。神の子とされていることの喜びを伝え、この喜びへと招く。その中で、自分の経験を交えて語る。