ルカ福音書 5章1~11節
2018年4月11日
(内容)
- イエスはゲネサレタ湖畔で舟に乗って群衆に教えられました。その後、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じられました。ペトロがこれに従うとおびただしい魚が網にかかりました。これを見たペトロは「わたしは罪深い者なのです」と言いました。イエスは「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。
(黙想)
- イエス様がゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして群衆がイエス様の周りに押し寄せてきました。この福音書の著者ルカは、イエス様が語る言葉をここでは、神の言葉としています。イエス様が語るのですから、神の言葉とすることに異論はありません。
- しかしイエス様の周りに押し寄せた群衆は、神の言葉を聞くつもりでいたのかと考えます。群衆はイエス様の教えに権威を感じています。だからもっとイエス様の教え、イエス様の語る言葉を聞きたいと思ってイエス様のもとに押し寄せました。でも神の言葉を聞くという自覚はなかったと思います。しかしルカにとってイエス様の語る言葉は神の言葉なので、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」と書いたのだと思います。
- 「神の言葉」とルカは書きます。私たちは神が直接語るのを聞くわけではありません。イエス様のもとの押し寄せた群衆は、イエスという人間の語る言葉を聞きに来たのです。旧約聖書を読むと、神の言葉を直接聞いた人物が登場しています。神の言葉を直接聞く人は限られています。神さまは人を通して、人々に語る方です。たとえば旧約においては、預言者を通して語られます。ルカ福音書のこの場面では、イエスという人物を通して神は語っておられます。私たちの場合、礼拝において説教者が神の言葉としての説教を語ります。
- 聞き手からすれば、彼が聞くのは人間が語る言葉です。自分が聞いた言葉が神の言葉であると考えるのは、信仰によります。人間が語る言葉が神の言葉であると証明することはできません。そもそも神の言葉を人間が語ること自体があり得ないことです。しかし私たちは、神さまが人を介して語られることを信じ、神さまが説教者を通して語られることを信じます。そして人は信仰によって、自分が聞いた言葉を神の言葉とします。神さまは仲介者を通して語ります。それは聞く人が信仰によって神の言葉を聞くことを神が願われるからです。
- 自分が聞いた言葉を神の言葉とするかしないか、それは聞く人の自由です。イエス様が故郷のナザレの会堂で語られたとき、人々は、イエス様の語る恵み深い言葉に驚きましたが、「この人はヨセフの子ではないか」と言って、イエス様が語ったことを神の言葉と受けとめることはしませんでした。
- 神の言葉を聞くとはどういうことなのでしょうか。それは、自分に対して絶対的な権威を認めることです。自分はそれ(聞いた言葉)に聞き従うべきであると考える、あるいは自分はそれ(聞いた言葉)に自分をゆだねるものとして聞く、それが神の言葉を聞くということです。そこには信仰があります。自分が聞いたのが神の言葉だと信じるので、それに従い、あるいはそれに自分の身を委ねるのです。
- 神の言葉とは何でしょうか。それは真理であり、人間が絶対的な信頼を寄せるべき言葉です。私たちは信仰によって、絶対的な信頼を寄せます。イエス様はそのような言葉を語られます。神の言葉が「しなさい」と命じたら、それに従うことが神の言葉を聞くということになります。神の言葉が「こうなるだろう」と約束すれば、その約束を頼みとして生きる、それが神の言葉を聞くということです。
- 自分の聞いた言葉を神の言葉と受けとめるか否か、それは聞く人の自由です。神が仲介者を通して語るということは、人間にこの自由を与えていることを意味します。
- イエス様はペトロに「沖に漕ぎ出し、網を降ろしなさい」と命じました。この言葉には、「そうすれば魚が捕れる」という約束が含まれています。このイエスの言葉に対し、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」という言葉には、今網を降ろしても何もとれませんよ、という思いが込められています。つまり漁をする時間帯ではないからです。でもペトロは「お言葉ですから」と言って、従います。おびただしい量の魚が捕れたとき、ペトロは、自分がイエス様の言葉を信じなかったこと、軽んじたことを思い知らされ、「私は罪深い者なのです」と罪を告白しました。つまり神の言葉を軽んじたという罪です。
- 神の言葉は無条件に信頼すべきものであり、無条件に聞き従うべきものです。そうすることによって、私たちは神に栄光を帰し、神をたたえることになります。聞いた言葉を神の言葉とするか否か、それは人間の自由であり、人は仲介者である人の語る言葉を信仰によって神の言葉として聞きます。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子) 1節。イエス様は神であり、イエス様の語る言葉は神の言葉です。
- (御子)10節。罪を告白したペトロを弟子にし、人をとる漁師にされる方です。それは主イエスの憐れみによるものです。
☆神が求める私たちの生き方
- (罪)5節。神の言葉を神の言葉としないこと。礼拝でみ言葉を聞く、と言いながら聞いた言葉にどう応答するかという時、人は案外、聞いた言葉に応答せず、聞き従うことをしません。また信頼を寄せることも少ないです。つまり、私はこう考えるから、という思いがそこにはあります。ペトロも、こんな明るいときに漁をするなんて愚かだと思っていたに違いありません。
- (模範)5節。「お言葉ですから」と言って、イエス様の言葉に聞き従うペトロの態度は、私たちの模範です。
- (模範)8節。自分の罪に気づいたとき、罪の告白をすることは大切なことです。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、群衆は神の言葉を聞こうとしてイエス様の周りに押し寄せました。今日の聖書を読んで、あらためて「神の言葉」とは何か、考えさせられました。礼拝説教を聞くことは、神さまの言葉を聞くことです。私たちは「みことば」という言葉を口に出します。「みことば」は、神の言葉を意味します。口に出しますが、神の言葉とはどういうものなのか、神の言葉を聞くとはどういうことなのか、案外、あいまいなように思います。そして「みことば」を聞いていると言いながら、自分流に解釈して聞き、神の言葉を人間の言葉におとしめ、自分がその上に立とうとしています。神の言葉を本気で受けとめず、神の言葉に信頼せず、中途半端な信仰に陥ってしまいます。
- それは、神の言葉がどういうものであるかを教えられていないからだと考えます。私自身も、神の言葉とは何か、簡潔明瞭に語ろうとしても困難を覚えます。今年度、月二回説教奉仕が与えられています。神の言葉とは何か、神の言葉を聞くとはどういうことかをめぐって説教したいと思いました。説教テキストを検討したいと思います。今日のルカの箇所もテキストになりますね。
☆与えられた導き
- 神の言葉を主題とする説教テキストを検討する。