ルカ福音書 4章1~15節
2018年4月2日
(内容)
- イエス様が受けた三つの誘惑が語られます。悪魔はイエス様に「神の子なら」と誘惑します。イエス様は聖書の言葉をもって悪魔の誘惑を退けます。
(黙想)
- イエス様が受けられた誘惑は私たちとは無関係な誘惑ではありません。私たちに対する誘惑です。私たちもまた「神の子」とされているからです。
- 第一の誘惑。荒野で40日過ごしたイエス様は空腹です。イエス様には空腹を満たしたいとの思いはあると思います。イエス様は神の子として石をパンに変える力を持っています。神の子なら、その力を使って石をパンに変えたらとの悪魔の誘惑です。これに対してイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と答えられました。
- 空腹を満たしたい、それは肉体の要求です。肉体の要求を最優先することをイエス様は拒否します。イエス様は相当空腹です。しかしイエス様は悪魔の誘惑を否定します。人は何を優先して生きるべきなのか、が問われます。必要に迫られて生きる時、必要を最優先して考える時、人は必要に振り回されて生きることになります。すると使命に生きることにおいて妥協が生じる危険があります。
- 牧師として生きる時、あれをすることは必要、それをすることも必要と、必要とされることを数え上げると、すべてをこなせないことを知りました。そして必要なことをしない、あるいはできないと自分を責める気持ちが湧いてきます。しかしデボーションをして神様が何をせよと仰っているのかを考え、それに従うようにした時、必要に振り回される生活から解放されました。神様が「しなさい」と言われることをしていけば、それでよいと学びました。
- 第二の誘惑。悪魔を拝めば一切の権力と繁栄を得ることができるとあります。つまり何でも自分の思い通りになるということです。イエス様は神の国の福音を伝えましたが、皆がイエス様を信じたわけではなく、イエス様は敵対する人たちによって十字架で処刑されてしまいました。一見、イエス様は思い通りにならない歩みをされたことになります。自分の思い通り、願い通りになるよりも、神さまに仕えることが大事だとイエス様はおっしゃいます。
- 誰にとっても、物事が自分の思い通りになることは魅力的なことです。牧師として神さまに仕えている時、自分の願い通りの結果を得たいとの思いが心の中にありました。礼拝に出席する人が増えるとか、求道者が早く洗礼を受けたらとか、教会の事柄において、自分の願い通りになることを願う思いがあります。
- 多くの人は、自分の思い通りになることを願います。自己実現を目指します。自分の願うとおり、思い通りになる人生を目指す時、悪魔の誘惑に陥っています。それは自分を神とすることです。神様以外のものを神とする偶像礼拝は、悪魔を拝むことに他なりません。クリスチャンでも、神に仕えるよりも、自分の思い通り、願い通りの人生を追求することがあります。牧師は神に仕えながら、自己実現を目指す誘惑があります。
- 第三の誘惑。悪魔は聖書を引用し、神殿の屋根の端から飛び降りれば、天使が支えてくれるし、それを見た人々はイエス様が神さまから遣わされたことを知り、イエス様を信じるようになると悪魔は言っているかのようです。それは伝道の成功につながります。
- これは神に行動を要求する誘惑です。神が~してくれたら、私は~できる、という考えが潜んでいます。イエス様が釘跡を見せてくれたら、イエス様の復活を信じることができるのにとトマスは言いました。このような考え方をする時、そこには信仰は働いていません。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- 警告>必要に迫られ、必要を満たすことに振り回され、本来自分は何をすべきかを忘れてしまうことへの警告。生活の中で何を最優先にするのかをきちんと考えることが大切。人は神の言葉によって生きるものです。
- 警告>権力と繁栄を求める、それは物事が自分の思い通りになることを意味します。自分の思い通りになること、自己実現・幸福追求を目指すことは警戒しなければなりません。牧師の働きも自己実現の手段となり得ます。神さまは、私たちの自己実現を助ける方ではありません。信仰者は神様のみ心の実現に仕えます。
- 警告>神様に何かを要求することは、神を試すことになります。もし神が~してくれたら、私は~するのに(できるのに)と考えることは警戒しなければなりません。そこには神さまへの信頼が欠如しています。神様が~してくれたら、私は信じることができるのにと考えることは、よくあることです。
(黙想)
- 私は信仰生活を続ける中で「確かさ」ということを考えてきました。自分の信仰が揺らいだり、疑ったりすることのないように、どうしたら確かさを持って信じることができるのか、ということを考えてきました。確かさを問題にした人が聖書に登場します。
- 神様から「あなたは大いなる国民になる」との約束を与えられたアブラハムです。彼はなかなか子が授からず、神様を責めるような口調で語ります。「わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧の通り、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕(しもべ)が跡を継ぐことになっています」(創世記15章)。
- 大いなる国民になるとの神の約束をアブラハムは信じられなくなりつつあります。疑い始めています。でも彼は信じたいのです。信じてよいとの確かさを欲しています。そんな彼に神が語ります。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい」。するとアブラハムは主を信じたと書かれています。
- しかしその直後、神が「わたしはあなたをカルデヤのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」と語った時、アブラハムは主に尋ねます。「わが神よ、この土地を私が継ぐことを何によって知ることができましょうか」。アブラハムは神の約束を信じるために神様にしるしを求めたということができます。
- 洗礼者ヨハネの父ザカリアも、天使から子を授かることを伝えられた時、「何によって私はそれを知ることができましょうか」と語りました。わたしが信じるために何をしてくれますかと言っています。天使は「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」とザカリアを咎めています。
- 神を信じること、神の約束を信じることは簡単なこととは言えません。イエス様は誘惑を受けた後、故郷のナザレに行きます。そして人々がイエス様を信じるために「いやしを見せて欲しい」と言うのをイエス様は知っています。しかしイエス様は信じてもらうためのいやしを行いません。行えば、悪魔の誘惑に屈したことになります。
- 私は信じる者として、信じて大丈夫だという確かさを自分の手の中にもちたいと考えてきました。確かさを自分の手に持つことはできないとも考えてきました。確かさの根拠は、それが「神の」約束であることにあるとも考えてきました。確かさを得るために聖書を読み、聖書から確かさを得るための論理みたいなものを見つけたいとも考えてきました。このような追求は、信じるために神にしるしを求めることとは違うと思います。
- でも「信じる」ことについて言えば、「見ないで信じる者は幸いである」に尽きるのではないかとも考えます。先日のディボーションで僕は祈りよりも理性に重きをおいてきたことを悔い改めることにしました。確かさを求める追求はもうやめて、祈ればよいのだと教えられたように思います。
(神の導き)
☆与えられた導き
- 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)。この祈りを自分の祈りにする。
- 神さま、イエス様の再臨を信じます。最後の審判で「よくやった。忠実なしもべよ」と言っていただけると信じます。顔を顔を合わせるようにイエス様の顔を見ることができると信じます。主イエスに私はあなたを信じ、あなたに召され、あなたに生かされてきました。あなたを仰ぐことができて本当にうれしいです、光栄ですと主をたたえる喜びで満たされると信じます。