ルカ福音書 1章67~80節

2018年3月14日

(内容)

  • ヨハネの誕生に際してのザカリアの賛歌。
  • (68~70節)主なる神への賛美。預言者が語ったとおりに、主は約束の実現として救い主を送られる。その主を賛美。
  • (71~75節)主はスラエルの敵、イスラエルを憎むものからの救いを与えるので、イスラエルの民は恐れなく主に仕えることができる。
  • (76~79節)ヨハネは罪の赦しによる救いを伝え、主に先立ち、主の道を整える。神の憐れみによる救い。その救いは暗闇と死の陰に座している者に光が照り、平和へと導く救いである。

(黙想)

  • ザカリアは、救いを敵からの救い、イスラエルを憎むものからの救いと考えています。これは当時のイスラエルの民のメシア待望と同じです。外国の支配からイスラエルを独立させるメシアへの期待です。
  • イスラエルが外国の支配に苦しんだのは、神に対する背信を積み重ねた結果であり、イスラエルの回復には悔い改めと罪の赦しが必要です。ヨハネは人々を悔い改めへと導きます。暗闇と死の陰。これは外国の支配下にある望みなき状況を描いています。マリアを母として生まれる救い主は、イスラエル民族の政治的回復のために生まれるのではありません。罪と死の支配から全人類を救う救い主、メシアです。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御父)68節。主はその民を訪れて「解放」を与える方。
  • (御父)70節。神は預言を成就させる方。救い主を送るとの約束を実現される方。
  • (御父)72,78節。神は憐れみ深い方です。

(黙想)

  • 罪の赦し、これは神の憐れみによる恵みです。福音の中心は罪の赦しにあると言えます。今日の聖書は、主はその民を「解放」する方として書いています。パウロやヘブライ人への手紙は、罪の支配からの解放を語っています。イエス様は私たちを自由にする方とヨハネ福音書は語ります。
  • 救いの恵みは罪の赦しにとどまらず、罪からの解放にも及ぶと知ります。罪の赦しは、「あなたは赦されている」と聞いて信じればよいのです。罪からの解放は、体験してこそ、恵みとなります。罪に対する自分の無力に絶望する時、キリストの恵みが罪に対する勝利を与えてくれます。
  • 信仰者は新しく生まれた者です。キリストに結ばれて新しく造られた者です。さらに神の子であり、罪に勝利する者です。信仰者には罪に勝利する喜びがあります。ところがこの喜びがなかなか聞こえてこない現実があります。
  • 昨年いくつかの教会の礼拝に出席することが許されました。その礼拝でなされる祈りを聞くと、罪の告白がなされ、続いて罪の赦しを感謝する祈りがささげられます。しかし、罪に対する勝利の喜び、感謝は聞くことができないのです。言い換えると、私たちはいまだに
  • 罪の支配下にあり、罪の奴隷であるかのように思わされてしまいます。でも罪の赦しがあるのでよかった、生きていけますと語っているように感じます。福音は罪の赦しに限定されているような祈りを聞きます。これは大きな問題点だと思います。そして私はこの問題点をずっと感じてきました。ホーリネスの教会が「新生、聖化」を強調する時、共感を覚えます。この問題点を何とかしたいと願っています。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、福音宣教の戦いは、あらゆるところで、それぞれの課題との戦いがなされていると信じます。それぞれの戦いの上に、戦っている人たちの上にあなたの励ましと導きがありますように。私は自分の与えられた場での戦いをいたします。
  • 今日は夜、祈祷会に出席します。あらかじめ取り上げられる聖書箇所を読み、黙想して出かけます。そして問題意識をもって臨みます。必要があれば発言させてください。
☆神の導き
  • 詩編27を黙想する。
☆結果
  • 一つの洞察が与えられました。自分の信仰理解について有益な洞察でした。詩編27編の前半は、神に対する固い信頼の告白がなされ、後半は、窮状におかれた詩人の懇願です。あれほどの硬い神信頼があるのになぜ、信仰の弱さから来るような祈りがなされるのか、ギャップを感じました。
  • 神への信頼という時、神からの賜物としての神信頼と、信仰者として生きる志から生まれる神信頼があり、私たちのうちには両者が混在しています。神からの賜物としての神信頼は、徹底した信頼となります。同時に、私たちは弱い者であり、その弱さから発する祈りも生まれてきます。人間的な神信頼は、徹底した信頼に至らず、同時に弱さから発する祈りに至らず、との理解を得ました。黙想を深め、機会があれば説教したいと思いました。