列王記下 8章16~29節
2017/9/7
(内容)
ユダ王国の王ヨラムとアハズヤ王について簡単に書かれています。ユダの王ヨラムは、イスラエルの王アハブの娘を妻とし、妻の影響を強く受け、イスラエルの王たちの歩みを進み、主の目に悪とされることを行いました。ヨラムが死に、その子のアハズヤが王になると、彼は母の影響を受け、主の目に悪とされることを行いました。
(黙想)
- ヨラムは主の目に悪とされることを行いましたが、神はユダ王国を滅ぼそうとはしなかったとあります。その理由は19節で「主は、ダビデとその子孫に絶えずともしびを与えると約束されたからである」と理由が書かれています。ダビデの子ソロモンの死後、イスラエルは北のイスラエルと南のユダに分裂しました。その時神は、ユダ王国はダビデの子が王位を継承し、ダビデのゆえに王国は続くと約束されました。そのことを神は「ダビデのともしびは燃え続けるようにする」と約束されました。神さまはダビデに対してはあなたの王国は永遠に続くと約束されました。しかしともしびは、いつか消えます。強い風が吹けば消えます。ユダの王たちが、主の目に悪とされることを行うので、永遠に続くと約束されたダビデの王国は、滅びる可能性のあるものとなりました。神さまの約束を人間が反故にしてしまうのです。人間の不信仰は、神の約束を真剣に受けとめず、結果として、神の約束が無駄になってしまう、悲しいことです。
- ダビデ王国が分裂した時、ヤロブアムが北イスラエル王国の王となりました。彼はサマリアに神殿を建て神の像を造りました。南ユダ王国の都エルサレムには神殿がありましたが、サマリアにはありません。神殿がないと民の心は、エルサレムに向かのではないか、そのことは北イスラエル王国の安泰を奪うと恐れ、ヤロブアムは神殿を建て、偶像を祀りました。それは主の目に悪とされることでした。
主なる神と別な神を拝んだのではありません。主を礼拝したのですが、礼拝の仕方を間違えたのです。十戒に「像を造ってはならない」とあるのに、像を造ったのです。神の戒めに反することを行っているので、主の目に悪なのです。 - 神さまを礼拝するには、神さまが示された方法で礼拝しなければなりません。十戒の第一の戒めは、「わたしをおいてほかに神があってはならない」です。宗教改革者のルターは、唯一の神を持つとはどういうことかを教えています。
- 「ひとりの神を持つとはどういう意味なのか。あるいは神とは何であるのか。答え。ひとりの神とは、人間がいっさいのよいものを期待すべきかた、あらゆる困窮に際して避けどころとすべきかたである。したがって、ひとりの神を持つとは、ひとりの神を心から信頼し、信仰することにほかならない」。このルターの言葉を読むとき、私たちは唯一の神を持っているのか、と吟味を迫られるように思います。
- 引退していくつかの教会の礼拝に出席するようになって、あることに気がつきました。礼拝における祈りで、さまざまな感謝が述べられます。それはよいことです。でも「神さまをたたえます」とか、「神さまを賛美します」とか、神さまをたたえる言葉が少ないのです。つまり神に対して感謝は献げても、たたえる言葉が少ないのです。確かに礼拝の祈りでは、最初に「あなたを賛美します」と神さまをたたえますが、たたえるのはそれでおしまいです。感謝することは「たたえることだ」との意見もあるでしょうが、私はそうは思いません。たたえることが少ない、これは何を意味しているのでしょうか。この傾向は私自身のうちにもあるのです。私たちは神に何を求めているのでしょうか。私たちは主の目に悪を行っているのではないかと思わされるのです。つまりひとりの神を持っていないのではないか、との吟味を迫られる思いがします。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- 神さまは約束を守る方です。ダビデに対する約束を守り続けようとします。
- 神さまは忍耐深い方です。ユダの王が主の目に悪とされることを行っても、ダビデに与えた灯のゆえに、ダビデの王国を存続させると誓ったゆえに、すぐには滅ぼしません。ユダ王国は、神の忍耐の下にあります。
☆神が求める私たちの生き方
- (警告)主の目に悪とされることをしてはならない。
- (命令)神を崇めて真実に歩む。
(導きを求めて)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたに対して感謝の言葉は多くても、あなたをたたえる言葉が少ないのは何故でしょうか。感謝が多い、それは、自分の生活が恵まれているということだと思います。この世界の現実を見れば、神は本当にいるのか、神は何をしているのだ、という声が真実味を帯びてきます。戦争、難民、貧困、飢餓、差別などの解決を求めても、何も変わらず、神さまをたたえる思いには導かれません。あなたをたたえる、どういうことなのでしょうか。教えてください。
- そうは言っても、何かあるから、何か起きたから、あなたをたたえるということも違っているように思います。神さまと私の交わりにおいて、私の持つべき心のありよう、それは神さまを愛することであり、神さまに対する愛は、たたえる、崇めるという形を取るとするなら、神さまをたたえる心をいつも持って、歩むということですね。たたえる、それは、あなたを畏れ敬うということもできますね。あなたに対する私たちの態度、それはたたえるという態度なのですね。
- 今日は詩篇を読みたいと思います。そこにはあなたをたたえる言葉があります。詩編95~詩編103まで読んでみたいと思います。
☆与えられた導き
- 詩篇を読む(詩編95~103編)
*翌日、思いがけない贈り物が届きました。感謝しました。ふと思いました。神さまは、この方の心を動かし、贈り物が届いたのではないか、と。そう思うとただ感謝するだけでなく神さまをたたえる思いが湧いてきました。そこで教えられました。感謝するとき、そこに神さまの働きを見るとき、神さまをたたえる思いが与えられるのではないか、と。