列王記上22章18~40節
2017年7月4日
(内容)
イスラエルの王アハブは、預言者ミカヤが戦えば負けると語ったのに無視し、自分に災いを預言するミカヤを獄に入れます。そして戦いに出かけ、戦死します。
(聖書に聞く)
- (18~23節)。ここでは、天上のことが書かれています。神と天使たちの会議が開かれていて、神は言います。「アハブを唆(そそのか)し、ラモト・ギレアドに攻め上らせて倒れさせるのは誰か」。するとある霊が「わたしは行って、彼のすべての預言者たちの口を通して偽りを言う霊となります」と語ります。あの400人の預言者は、偽りの霊の導きを受けて、アハブに勝利の約束を語ったことになります。
- アハブ王がアラムと戦えば負け、アハブは倒れる、つまり死ぬのです。これが戦った場合に起きる結果です。人間は未来を知ることはできません。しかし神はご存じです。400人の預言者は戦うことを進言します。それはアハブの心、戦って土地を取り戻したいというアハブの心そのものです。
- 「アハブをそそのかす」とあり、神さまがひどいことをしているように見えますが、そうではないと思います。神さまは、戦いを起こすつもりなどないアハブをそそのかして戦いを起こさせるのではありません。アハブは戦いをしたいのです。神さまは預言者を通して、アハブが聞きたいことを聞かせるのです。他方で神さまは預言者ミカヤを通して、戦えば負けることを告げています。
- アハブはどちらの言葉を受け入れるかです。彼は、自分に快い言葉を受け入れました。
- (24~28節)。王に戦うことを進言した預言者のツィドキヤがミカヤを殴ります。自分は偽りの霊に惑わされて語ったと言われ、侮辱されたと感じたのです。そしてアハブ王は、ミカヤを獄に入れるように命じ、戦いに出かけます。ミカヤの預言を信じようとはしませんでした。ミカヤは、神が私に語られたからには、あなたは戦いから無事に帰ることはありませんと告げます。
- (29~40節)。アハブはヨシャファトに、「わたしは変装して戦いに行きますが、あなたはご自分の服を着ていてください」と言います。敵がヨシャファトを狙い、自分は敵の攻撃の的となることを避けようとする卑怯な態度です。ずるい態度です。そして戦死します。神さまが語られたとおり、アハブ王は倒れたのです。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
☆神が求める私たちの生き方
- (警告)自分の思いで行動してはいけない。アハブ王には自分の思いがありました。アラムと戦い、ラモト・ギレアドの土地を取り戻したいという思いです。預言者ミカヤが、戦えば負けると語ったのに、自分の思いに従い、アハブ王は戦い、戦死をしました。
- 自分の思いに生きることは必ずしも幸いではないとの警告があります。「わたしたちも以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェソ2:3)。自分の思いに従って生きる、それは罪を犯して生きることだというのです。なぜなら、神さまのみ心に反した行いをするからです。
- (警告)聞いた神の言葉を捨ててはいけません。アハブ王は、預言者ミカヤの語った言葉を受け入れませんでした。自分に与えられた神の言葉を捨てました。聞いたのに捨てたのです。でもアハブが直接聞いたのはミカヤの言葉です。ミカヤを通して神さまが語っていると信じるかどうか。そもそもアハブは、神さまが語るということが本当にあると信じていたのかどうか。
- アハブ王の姿は、私たちの姿であるかもしれません。私たちは礼拝で説教を聞き、また聖書を読みます。私たちは何を聞いているのでしょうか。何を読んでいるのでしょうか。自分の心が喜ぶことを聞きたがっていないでしょうか。自分の心が喜ぶことを見いだしたいと願って聖書を読んでいるのではないでしょうか。
- 私たちは神さまが語られるということが本当にあると信じているでしょうか。信じて聞いているでしょうか。私たちは人の言葉を沢山聞いて毎日を生きています。もし私たちが神の言葉を聞いたとしたら、私たちにどのような変化が生まれるのでしょうか。
- 聖霊に導かれなければ、説教の言葉、聖書の言葉が神の言葉であると信じることはできません。聖霊の導きを求めることは大切です。聖霊は<求める>人を導くので、私たち自身が、神の言葉を求めることが大事です。
- そもそも神の言葉を聞くとはどういうことでしょうか。
(神の導き)
☆与えられた導き
- 神の言葉を聞くとはどういうことなのか、自分の言葉で、答えを書いてみたい。