列王記上22章1~17節

2017年7月2日

(内容)

イスラエルの王アハブは、アラムと戦い、ラモトギレアデの地を取り戻そうと考えます。そこでユダの王ヨシャファトに一緒に戦うように提案をします。ヨシャファトは先ず神の導きを求めることを提案します。アハブは預言者を通して神のみ心を聞きます。

 

(黙想)
  • アハブは奪われた土地の奪還を計画しました。それは神のみ心に適うのか、それとも彼の人間的な欲望なのか。協力を求められたヨシャファトは、神のみ心を求めることを提案しました。このヨシャファトの態度は、よき模範です。「御心が天で行われるように地においても行われますように」と祈る信仰者は、自分の考えだけで行動するわけにはいきません。神さまのみ心を尋ねる必要があります。神さまを信じるとは、神さまの導きを求めて生きることを意味しています。神さまは私たちを導いてくださる、これが私たちの確信です。
  • アハブは約400人の預言者を招集して、神のみ心を聞きます。するとどの預言者も、戦えば勝利することを告げます。ヨシャファト王は、他にまだ主の預言者はいませんか、と問うとアハブは、ミカヤという預言者がいることを告げます。アハブは彼を招集しなかった理由を告げます。「彼は私に幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、私は彼を憎んでいます」。自分の耳に心地よい言葉を求める態度は、神の導きを求める態度ではありません。人が忠告を求める時、それは自分の考えを肯定してくれる忠告を求めることが多いものです。
  • 21章の最後で、アハブは悔い改めたはずです。でも3年も過ぎると悔い改めたことを忘れたのでしょうか。もともとアハブは神の導きなど求めていないのです。自分がやりたいように生きていきたいという姿勢です。仮に預言者に神のみ心を尋ねさせるとしても、彼は自分の喜ぶことを預言者が語ることを求めています。ですから招集された400人の預言者はアハブ王の喜ぶことを語ったのです。
  • 預言者ミカヤは、最初「攻め上って勝利を得てください」と語ります。彼は王の求める言葉を語って聞かせたのです。王がそれを求めているからです。王は神の言葉を求めていません。アハブはミカヤが自分が喜ぶことを語っていると考えます。そこでミカヤに神の言葉を告げよと命じると、ミカヤは戦えば敗北することを告げます。ミカヤは言います。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」。これは兵士が敗走する姿を描いています。神のみ心を預言者としてミカヤは語りました。
  • 神さまの導きはどうしたら分かるのでしょうか。神さまの導きは、それが神さまの導きだと分かるものなのでしょうか。アハブ王は、預言者ミカヤを通して神さまの導きを与えられました。神さまの導きは、それが誰の目にも明らかに神さまの導きであると分かるものではなく、むしろ信じるものです。預言者ミカヤを通して神さまは導きを与えました。ミカヤの語ることが神さまの導きだと信じるか否か、です。自分にとってよいことを預言しないミカヤは嫌いだとアハブは述べ、結局、信じません。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • 神は預言者を通して導きを与える方です。
☆神が求める私たちの生き方
  • (模範)ヨシャファトは神の導きを求めるように提案しました。神の導きを求める、これは良き模範です。
  • (教え)神さまの導きは、私たちが好ましいと思えるものであるとは限りません。神さまは私たちにとって最善の導きを与えて下さいますが、私たちがそれを最善と考えるとは限りません。自分の願うのとは違う、という理由で、私たちは神さまの導きを退ける可能性があります。アハブはミカヤの言葉を退けました。
  • (警告)アハブはミカヤの言葉を退けました。アハブの振る舞いは私たちにとって警告です。

 

(神の導き)

☆黙想
  • 私は現役の牧師の務めは引退しました。しかし福音を伝えるという神さまの召しが終わったとは考えていません。特定の教会に仕えて牧師として働くのとは別な形で神さまに用いられることを願っています。それが個人的な願いなので、神さまのみ心にかなう願いなのかは、明らかではありません。しかも年齢的な限界があり、どこまでできるかは何とも言えません。何かを始めても中途半端になる恐れがあります。
  • しかし、「伝えたいものがあるなら伝えなさい」との神さまのお言葉をいただいているつもりです。またフィリピの信徒への手紙に「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(2:13)。この言葉も、わが身において実現していると信じています。
  • わたしが伝えたいこと、それは聖書を通して神さまの導きに生きる信仰生活を伝えることです。日々御言葉に生きる生活を伝えたいとの志し、願いを神さまは与えてくださったと信じ、神さまに用いられたく思っています。若い頃、年配の先生が語っていたのを思い出しました。「神さまに用いられる間は、お召しはない」。この場合のお召しとは天に召されること、つまり死です。
  • ブログで聖書を読んでの思いを書いているのも、日々御言葉に生きる生活そのものを伝える試みに他なりません。
☆与えられた導き
  • 一歩踏み出すために、インターネットに新しいサイトを開設すべく、プロバイダに契約をする。