ルターが語る聖書の読み方(3) 試練
私はあなたに神学研究のための正しいあり方と方法とを示したい。なぜなら、私もこの訓練を受けたからである。そしてこのあり方と方法というのは、疑いもなくすべての族長や預言者たちも保っていたものだが、聖王ダビデが詩編119で教えているものである。そこであなたは、この詩編全体をとおして、十分に示されている三つの原則を見いだすことであろう。それらは祈りと黙想と試練とである。
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第三に、ここには試練もはいる。試練こそ試金石である。試練は知り、理解することをあなたに教えるばかりでなく、神のことばがすべての知恵にまさる知恵としていかに正しく、いかに真実で、いかに甘く、いかに愛すべく、いかに力強く、いかに慰めに満ちているかを経験することをも教える。
だから、あの詩編でダビデがいかにしばしば、あらゆる種類の敵や荒れ狂う王や暴君について訴えているか、また彼が黙想するがゆえに、つまり、どんな場合でも神のことばとかかわることにしているがゆえに、忍ばねばならない誤った霊の持ち主や暴徒についていかにしばしば訴えているかも、あなたは見る。神のことばがあなたをとおして増し加わるやいなや、すぐ悪魔はあなたを訪れ、あなたを本当の博士とし、試練によって、あなたが神のことばを求め愛することを教えるのである。私自身も、教皇派の人々が悪魔の荒れ狂うにまかせて私を徹底的に打ち、圧迫し、不安にさせたこと、このようにして私をまともな、よい神学者にしたことについて大いに彼らに感謝すべきである。ほかの方法では私はこんなふうにならなかったことであろう。これで彼らがいくらかでも私から価値を得たとでも言うのなら、やりたいように、名誉と勝利と勝ちどきを彼らに喜んであげさせることにしよう。
さあ、あなたにはダビデの原則がある。この模範に従って正しく学ぶなら、あなたもまたダビデと共に「あなたの口のおきては私には幾千の金銀にまさるものです」(詩編119:72)と歌い、誇ることになろう。
(世界の思想家5『ルター』徳善義和編、p54~56)