マタイ福音書 7章13~14節 狭い門から入る
2024年6月21日
(内容)
- 狭い門から入ることが勧められる。広い門は滅びに至り、狭い門は命に通じる。
(内容)
- この段落は、選択を迫る。狭い門に入るか、広い門に入るか。狭い門から入ると狭い道が続くが、それは命に通じる。広い門は広い道で続き、多くの人がこの道を歩くが、滅びに通じるとある。
- どちらを選ぶかの選択を迫られる。
- この段落は、この山上の説教のまとめの部分である。これまでイエスはイエスの弟子たち、キリスト者はいかなる在で、いかに生きるべき者かを語ってきた。そしてキリスト者の歩みは狭い門から入り、狭い道を歩み続けるようなものだと教えている。
- イエスの教えをむずかしいよな、と言って、できる範囲で従おうというような態度は、広い門に入り、広い道を歩むことになる。イエスの教えに徹底して従う、それが狭い道を歩き続けることである。7章24節以下の、どの土台の上に家を建てるのかの教えも、この段落と同じである。硬い岩の上に家を建てるのは狭い門から入り、狭い道を歩むことである。15節以下は、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶの教えも同じ主旨の教えである。
- どちらを選ぶのか、イエスは問う。イエスの教えは、キリスト者の生き方を示す。このイエスの教えを聞いたら、非キリスト者は嘲笑うのではないか。バカバカしいと。「人からして欲しくないことは人にするな」の教えなら、非キリスト者も同意するだろう。しかし「自分が人からしてほしいことを人にせよ」との教えは、非キリスト者には理解できない。なぜそれをしなければいけないか分からない。自分だけが人にして損をする。見返りを期待しない行為なんて意味がないと言うに違いない。
- 私たちは主イエスを信じたらキリスト者になる。キリスト者を名乗ることになる。しかしイエスが教えるキリスト者の生き方をすぐに全うするわけではない。キリスト者として生きることに成長することが大切となる。この山上の説教を学び、一つ一つの教えに従うことが大切となる。
- しかし忘れてはならないのは、罪の力である。イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けた。神の御心に従うのを妨げる力があり、キリスト者に対して働くのである。この力を無視して、イエスの教えに従わなければならないと考えると律法主義に陥る。律法に仕える者となり、教えに従いたいけどそれができない、自分は何と惨めな人間なのだという告白に陥る。罪の力にどう対処するか、それはパウロから学ばなければならない。
- キリスト者の道は徹底した道である。完璧な歩みをすることができる者はいない。私にできることは、欠けがあっても、失敗があっても、この狭い道を歩き続けることである。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>狭い門から入り、狭い道を歩み続けること。
- <約束>狭い門から入る道はいのちに通じている。
- <警告>広い門から入り、広い道を歩むこと。それは滅びに通じている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。狭い門から入りなさい、それは命に通じているからとあります。広い門は、滅びに通じているからとあります。命と滅び、この違いはどのように経験されるのでしょうか。
- それぞれの道を歩む時、見える景色が違うのではないかと思います。狭い道を歩む人は、神をいつも崇め、神をたたえ、神を喜び、感謝し、神に一切をゆだねて歩む平安があるように思います。しかし広い道を歩む者は、不安や悩みがあり、恐れがあり、心に平和がありません。神をいつも崇めることができないし、いつも神をたたえることができません。神に対する不満が、心に渦巻きます。自分の思い通りの人生を歩みたいという願いが心の底にあるからです。
- 人は自分の心を顧みれば、自分がどちらの道を歩んでいるか気づくのではないかと思います。そして主イエスは、狭い門から入りなさいと招き続けておられます。
- 私の心には一つの傷があります。その傷のゆえに、あなたへの恨みが心の底にあり、そのことがあなたを崇め、賛美することを妨げることがあります。あらためて今日、このことを思います。狭い道を歩くとは、様々な障害があることを意味します。私の心にある傷もその一つの障害なのですね。この傷があるから、私は福音を求め、また福音を宣べ伝える者に召されたと言うこともできます。
- 今日はこの傷を与えられたことを感謝し、恨みを捨てることにします。そしてあなたに生かされていることを心から感謝し、あなたを心から崇めたいです。今の思いを祈りとして表現したいと思います。私を導いてください。
☆与えられた導き
- 今の思いを祈りで表現する。