ルカ 9章43~45節 キリストによる救い
2024年2月27日
(内容)
- イエスは受難の予告を繰り返した。でも苦難の意味は弟子たちには隠されていて、弟子たちはイエスが何を語っているのか理解できなかった。
(黙想)
- イエスがご自身の苦難について三度語ったことは共観福音書に共通している。それを聞いて弟子たちがどのように反応したのか。三つの福音書で多少の違いがある。
- 一回目の受難予告では、弟子たちの反応はどの福音書にも書かれていない。
- 二回目の受難予告。マタイは弟子たちが「悲しんだ」と書く。マルコでは、弟子たちは主イエスの言葉の意味が分からなかった。でも怖くてイエスに尋ねることができなかったとある。ルカでは、マルコと同様、弟子たちは意味が分からず、怖くてイエスに尋ねることができなかったと書く。さらにルカでは、弟子たちに理解できないように隠されていたと書く。
- 三回目の受難予告。マタイ、マルコは弟子たちの反応は書かれていない。イエスの言葉だけが書かれている。ルカでは、イエスの言葉の意味が隠されていたので、弟子たちは理解できなかったと繰り返し書く。
- ルカ福音書では、イエスの苦難の意味は隠されていたと書いているところに特徴がある。この時点で、弟子たちにイエスの苦難の意味は分からないのは当然だ。何よりもイエス自身が説明していない。ルカは弟子たちには隠されていたと書く。隠されたからには、明らかにされる時が来ることが予想される。復活後、エマオ途上の弟子たちに、イエスは聖書全体から、ご自分について書かれていることを説明したとある。
- 使徒言行録では、ペトロはイエス・キリストは救い主であること、罪の赦しを受けるように勧めたことが書かれている。13章にパウロの説教が書かれているが、信じる者は義とされると語ったことが分かる。初代の信者は、旧約聖書をもとに、聖霊の導きを得て、キリストの死が罪の贖いのための死であったことを理解するようになった。
- 我々も、聖霊の導きによりイエス・キリストを信じ、その贖いの死を信じた。信じるには聖霊の導きが必要である。
- 我々は、聖霊の導きを受けて、イエスがキリスト、救い主であることを信じた。信仰は恵みである。キリストが私たちのために死なれ、救いの御業をなさってくださったとするなら、キリストによる救いとは何か、明確に信じることが大切となる。神がその独り子を犠牲にしたことによる救いである。
- キリスト者ならだれでも救いの恵みと言えば、罪の赦しをあげる。しかし聖書は、救いの恵みは罪からの解放をも語るし(ローマ6:6,14)、キリスト者が律法の要求を満たすことを語る(8:4)。キリスト者は信仰によって義と認められるだけではなく、霊に従って歩む時、律法を行い義を満たす。つまり律法を行い義人に近づくことまで聖書は書いている。福音宣教が十分ではないために、キリストによる苦難の意味は、現代人においても隠されていると言えるかも知れない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>苦難を予告する方
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>弟子たちに苦難の意味は隠されていたとある。イエスの苦難は何のためであったのか、聖書から学ぶことは大切である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、主イエスが苦難の予告をされたとき、弟子たちには主の苦難の意味が隠されていたとあります。私たちには聖書を通して、主の苦難は、私たちを罪から贖うためのものであったことが知らされています。
- しかし主イエスによってもたらされる救いがどのようなものであるのか、私たちはきちんと理解できていないのではないかとの思いを抱くようになりました。
- 使徒パウロが、ロマ書で書いている救いを理解することは簡単ではないことが原因ではないかと推測します。私は若いとき、ロマ書はエヴェレストを登るような気がして、理解しようと挑戦することをためらったことがあります。解説書をいくつか読みましたが、今ひとつ物足りない感がありました。しかし今、マルチン・ロイド・ジョンズ牧師のロマ書の講解の本に出会い、うれしく思います。きちんと説き明かしてくださり、牧師を隠退した今、これに学ぶことができる幸いを感じています。
- 学び得たところに従い、伝えることができたらと思います。祈りつつ学びをなお進めたいと思います。
☆与えられた導き
- キリストによる救いの内容をなお学ぶ