マルコ福音書 7章14~23節 心から出てくる悪い思い

2022年5月17日

(内容)

  • ファリサイ派の人たちとの論争を終えた後、イエスは汚れについて群衆に教えられた。悪い思いが心から出てきて人を汚す。

(黙想)

  • イエスは群衆を呼び寄せて教えられたとある。ファリサイ派、律法学者たちは言い伝えを守り、身を汚れから防いでいた。おそらく群衆は彼らのように実践することはなかったと思われる。ファリサイ派の人からは汚れていると見られていると群衆は感じていたのかも知れない。そこでイエスは、汚れについて群衆に教えた。
  • 人間にとっての汚れについて、心から出てくる悪い思いが人を汚すとイエスは教えられた。食物は口から入って排泄されるだけで、人を汚すことはない。そもそも人を汚すとはどういうことだろう。
  • 確かに悪い思いが心の中に湧いてくる。湧いてくるのを防いだり、抑えつけたりすることはできない。悪い思いは出てくるのである。そして「こんな思いが出てきた」と思う。そして自分の心が清いわけではないことを知る。また悪い思いは言葉となって口から出てくることがあるし、行動となったりする。
  • 悪い思いが湧いてくるのは仕方がない。そこでどうするか、である。悪い思いを口に出す、あるいは行動する、それが罪である。他者に対する批判的な思いが心に湧いてくる。これは仕方がない。しかしこれを口に出すと悪口になる。これは罪である。悪い思いが言葉となって口から出たり、行動となるとき、それは罪を犯すことになり、私たちを汚すのである。悪い思いが私たちに罪を犯させる、それが汚されるということである。
  • イエスは情欲を持って女を見る者は姦淫を犯したに等しいと言った。情欲が湧いても、女から目をそらせばよい。見てしまえば罪を犯したことになる。
  • 心から湧いてくる悪い思いにより身を汚しているのに昔からの言い伝えを守って自分はきよい者だと思い上がっているファリサイ派や律法学者たちをイエスは批判した。
  • 聖書が語っていることは以上のことである。ではこの汚れから自分を守るにはどうしたらいいのだろうか。この箇所でイエスはそのことは語っていない。山上の教えで「心の清い人々は幸いである」とイエスは教えた。心の清い人を目指すことができる。
  • イエス・キリストを信じる者は、このような汚れから自分を清めていく。ただし、汚れた思いが心の中に出てこないように抑えつけることはむずかしい。心の中に湧いてくることを防ぐことはできない。しかし私たちは心を清くしなければならない。清い心とは何か。私は神の子とされていることを喜ぶ心であると考える。
  • イエス・キリストを信じる者は、神の子とされている。神の子として喜んで生きようとするとき、汚れた思いが湧いてきても、それを無視し捨てることができる。あるいはそれに代わる思いで心を満たすのである。その繰り返しの中で、汚れた思いが湧いてくるのが少なくなる。
  • 汚れた思いが湧いてくることを気にせず、神の子としての思いに生きることが大切である。人を裁く思いが湧いてきたら、執り成しの祈りをするのである。憎しみが湧いてきたら、赦す思いを与えてくださいと祈る。汚れた思いが湧いてきたらどうするか、一人一人が御言葉から対処することが大切である。こういう思いが湧いてきたら、こう対処するという対処方式を考えるのである。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>悪い思いが行動となり、人を汚す。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。悪い思いが心の中に湧いてくるのを防ぐことはできません。湧いてこないようにすることはできません。悪い思いを行動に移さないことが大切ですね。行動となったとき、それは罪となり、私たちを汚します。
  • 悪い思いが湧いてきたとき、それに対処すれば、私たちは罪により汚れることはありません。悪い思いが湧いてくることで、自分が汚れていると考えるのは間違いであると考えます。人間は悪い思いが湧いてくるのをコントロールできないからです。人間がコントロールできるのは、それを行動に移すか否かです。
  • そこで思います。心の清さを保つ努力が悪い思いへの対処法を生み出すと信じます。悪い思いが湧いたのなら、別な思いで心を満たせばよいと信じます。具体的な対処法をブログで紹介したいと思いました。私自身が経験したことを証しとして書いてみたいと思います。
☆与えられた導き
  • 悪い思いへの対処について証しをブログに書く